ニーチェと聞くと「ツァラトゥストラはかく語りき」という著書がとても有名です。本については聞いた事なくても”神は死んだ”や”超人”という単語だけでも聞いた事があるのではないでしょうか。
哲学者と言えばニーチェは代表的な存在ですが、彼の著書は比喩も多いため難解で哲学に興味を持った多くの人達が理解する事に苦しんできました。
当ページでは、そんなニーチェについてしっかり理解できるように紹介していますので是非ご覧下さい。
フリードリヒ・ニーチェとは
この記事の進行を務めるのはわし、ソクラテスじゃ!わしとは随分時代が離れているが紹介しよう!”フリードリヒ・ニーチェ”じゃ!簡単に自己紹介してもおう!
お初にお目にかかります。ニーチェと申します。私は、ドイツのキリスト教牧師の家に生まれました。しかし、キリスト教の考えには反対でニヒリズムの主張をとっていました。
ほう、キリスト教を否定するとは随分すごいのう。なぜ否定の立場をとっていたんじゃ?あと、ニヒリズムとは何じゃ?
私の時代では科学が発達してキリスト教に矛盾も生まれつつあったんです。
キリスト教は神が全て作り善と悪は神が判断する事になっています。しかし、私は善と悪は、弱者が強者に対して抱く嫉妬心から生まれると考えました。キリスト教に神は存在せず、弱者が嫉妬心を抱く事を正当化する教えだと思いました。
神がいないのであれば善と悪は弱者の主観的な価値に過ぎません。善悪が無ければこの世の中に本質的に価値のあるものはないと考える主義をニヒリズムと言います。
随分と極論的な意見じゃの。ただ、確かに今まで自然現象で説明ができないものは全て神の行いじゃったからのう。現象が科学で説明できるようになると神の存在自体が揺らぐのう。
しかし、ニヒリズムの主義は人生を怠惰な状態にするのではないかのう。
仰る通りです。ニヒリズムの主義は人を怠惰にします。
しかし、この世に本質的に価値のあるものなど存在しなくても主観的に価値を見出していく事はできます。このような考えを”積極的ニヒリズム”と言い私はこの立場を取っていました!
キリスト教を否定
彼は自書で「神は死んだ」として、キリスト教の矛盾をつきます。
ニーチェはそれまで絶対的価値観であったキリスト教を真っ向から否定します。当時、全てのものは神が創造していると、人々は本気で信じておりキリスト教を否定する事は異端者として扱われました。
その反面、ニーチェの生きた時代とは、科学が発達し、これまで信じていた価値観が大きく揺らぐような事実がたくさん明らかになった時代でもありました。科学により実態のない信仰や道徳に疑念を抱く人々も出てきました。
ニヒリズムを超えた積極的ニヒリズム
ニーチェの思想はニヒリズムからきています。ニヒリズム(虚無主義)とは、人間を含むこの世界に真理や価値はないとする考え方です。
何も価値がない事に絶望し、流れに身を任せて生きる状態は消極的ニヒリズム と言います。反面、ニーチェは積極的ニヒリズムを支持しました。
積極的ニヒリズムとは、世界で無価値である事を認めながらも前向きに生きるという状態です。無価値でも積極的に自ら主観的な価値を想像していく事が大事であると考えていました。
生誕から大学時代
キリスト教の牧師である両親のもとに生まれる
両親は、キリスト教への信仰心が厚かったんじゃの〜
はい。でも私は、キリスト教には幼い頃から反対していました。この時代は本当に科学が発展していましたからね〜
記事を見てくれている人の多い日本では当時幕末に差し掛かる直前でした!
ニーチェは1844年、今のドイツにあたる場所にあるプロイセン王国の小さな村で生まれました。のちにキリスト教を否定するニーチェですが、両親はキリスト教への信仰心が厚かったのです。
ニーチェには妹と弟がいましたが、5歳の頃、父と弟を立て続けに亡くしてしまいます。男手をなくした一家は、父方の故郷であるナウムブルグの祖母の家に身を寄せることになりました。
補足ですが、ニーチェの妹はエリーザベトといい兄であるニーチェを大変慕っていました。幼少のころからニーチェの文を収集し、中年期には兄が恋焦がれた相手に嫉妬に狂い嫌がらせをしています。
優秀な生徒としてプフォルタ学院へ
お主も当時は、優秀だったんじゃの…
ええ(笑)
特待生で名門に入れる程度ですが。
生意気な後輩じゃの(笑)
ナウムブルグのギムナジウムに通っていたニーチェは国語や音楽で類まれな才能を発揮します。ギムナジウムとは、ヨーロッパで中等教育を受ける機関で、日本でいう中学校時代には、周囲から一目置かれる存在だったようです。
その噂は、屈指の名門校と言われるプフォルタ学院にも伝わり、なんと校長直々に特待生として転入する誘いを受けます。プフォルタ学院でニーチェはギリシャ古典を学び、そこでの知識はニーチェに大きな影響を与えました。
古典文献学を学ぶためライプツィヒ大学へ
大学では元々、神学部と哲学部に在籍していたんじゃの。
はい、ですが当時古典文献学と出会って神学部と哲学部は辞めてしまいました。古典文献学で面白い研究を行なっていたのでそちらに移ってしまいました。
母は、私を牧師にさせたく神学部に通わせていた事もあって辞めた後母とは大げんかしました(笑)
プフォルタ学院卒業後、ニーチェはボン大学に入学しました。ここでニーチェは古典文献学の研究に惹かれていきます。古典文献学とは過去の文章や言語を取り扱う学問です。
神学部と哲学部に在籍していましたが、研究に興味を奪われ、神学も信仰もやめてしまいます。結局、ニーチェは母と大喧嘩の末、ライプツィッヒ大学へ転学します。
ライプツィッヒ大学では、没頭していた古典文献学で頭角を現し、校内の評価も大変高かったといいます。ニーチェは26歳の時、教授の強い後押しがあり、異例の若さでバーゼル大学の教授となりました。
26歳の若さでハーゼル大学の教授へ
ワーグナーとの出会い
このワーグナーという人物はどんな存在だったんじゃ?
ワーグナーさんは音楽家でした。私は、ワーグナーさんの熱烈なファンだったんです!私の処女作はワーグナーさんを題材に執筆しました。
教授時代、音楽にも関心の深かったニーチェは、かねてより感銘を受けていた音楽家であるワーグナーと出会います。
芸術によって世を救済へと導こうとする革命家としてのワーグナーに心酔し、何度も彼の家に足を運んだようです。ワーグナーも非常にニーチェのことを可愛がり、親しい友人との集いに招いたりするなど、親交を深めました。
「悲劇の誕生」執筆
これが、ニーチェ、君の処女作か。どんな作品だったんじゃ?
とにかくワーグナーさんを褒めちぎった内容の著書です!ワーグナーさんは喜んでくれました!!
ただ、古典文献学のルールから少し外れてしまった事と、あまりにも好意的な文章がワーグナーさんの同業者から否定され評判は最悪でした(笑)
それは、もう何ともな事じゃのう…
「悲劇の誕生」はニーチェの処女作です。
芸術は、混沌と秩序で成り立っていることを記したこの本で、ニーチェはワーグナーを絶賛します。しかし、論証が必要な文献学とは大きくかけ離れた内容で、この本は酷評されてしまいました。
この本がきっかけで、ニーチェの評判は悪くなり、大学内で孤立してしまいます。彼の講義には、二人しか生徒が訪れないこともあったそうです。結局、ニーチェは、持病の悪化もあり、教授を辞さなくてはならなくなったのです。
教授を辞職し哲学者へ
ルー・ザロメとの出会い
君は気難しそうだが、女性と交際しておったんじゃの〜
はい、ですがプロポーズしたら振られてしまいました…
おまけに妹が彼女に嫌がらせをして彼女は僕の元を離れていってしまったんです、、
哲学者となったニーチェは、自身の持病の療養のため、気候のよい地域を転々としました。そんな中、知人を通じてルー・ザロメに出会います。ザロメはエッセイストであり、精神分析にも精通した聡明な女性です。
ザロメとの出会いでニーチェは死後に出版された作品「力への意思」の構想を得たとされています。交友を深めるうちにザロメに心を奪われていき、ニーチェはついにプロポーズします。
しかし、ザロメの返事はそっけないものでした。
さらに、ザロメに嫉妬心を抱いた妹・エリーザベトは、兄の書簡を捨てたり、ザロメを中傷するなど二人の仲を引き裂こうとしました。このことも一因し、ザロメはニーチェの元から去ってしまいます。
失意のニーチェは、イタリアへ逃れ、そこで「ツァラトゥストラはかく語りき」を書きあげたといわれています。
「ツァラトゥストラはかく語りき」
しかし、彼女との別れがあったからこそこの名著「ツァラトゥストラはかく語りき」が執筆できたんじゃの!!
もう心はボロボロでしたからね!書くことに集中しようと思ったんです!
「ツァラトゥストラはかく語りき」はニーチェの代表作です。4部からなる物語形式の著書で、主人公ツァラトゥストラが、ニーチェの思想を代弁するというというものでした。
しかし、比喩の多い文体であり、内容も難解で、当時は誰からも受け入れられませんでした。出版社も見つからず、自費でわずかな冊数を印刷し、贈答用としていたようです。
ニーチェはこの著書で何を伝えようとしたのでしょうか。
「神は死んだ」
「ツァラトゥストラはかく語りき」で度々出てくる「神は死んだ」という言葉。ニーチェの名言として、最も有名でな言葉です。
「神は死んだ」という言葉は、キリスト教は失墜したとして、ニーチェは著書でその後訪れるニヒリズムの世界を克服できるよう自論を展開しました。
キリスト教の根底に潜むルサンチマン
ニーチェは、キリスト教を否定する大きな理由の一つにルサンチマンがあるとしました。ルサンチマンとは、恨みや嫉妬のことです。
ニーチェは、キリスト教の教えは、弱い立場の人間が権力者や成功者などの強い立場の人間に抱く、恨みや嫉妬が基になっていると主張しました。例えば、隣人愛や死後の世界などです。
隣人愛は、自己犠牲の愛を持ち合わせていないだろう強者が、救われないこと願っていると考えられます。キリストの教えに忠実であった者が天国へ行けるという教えは、実在しない世界で、強者への恨みが晴らされることを望む心の表れだと捉えられます。
ニーチェは、このような低俗な心を基にした宗教では、人間本来の成長はないと考えました。
永劫回帰という思想
ニーチェの思想の中に、永劫回帰というものがあります。同じ経験が永遠に繰り返されているという世界です。
悲しみや苦痛も、同じタイミングで、永遠に繰り返される、一見絶望するような世界ですが、ニーチェはこのループの中で、もう一度味わいたいと思うような価値を自分で創造していくことが大切だとしました。
絶望的に思える永劫回帰も、自分自身で価値を見つけることにより、躍動する体験を何度も繰り返す希望にあふれた人生になるというものです。
超人に向かう3ステップ
では、自身の価値を見つけるにはどうしたらいいのでしょうか。ニーチェは、キリスト教をはじめとする既存の概念にとらわれず、自由に価値を生み出せる人間を超人と呼びました。
超人になるには、3つのプロセスが必要だとしています。
- 駱駝 重荷に耐えることで強靭な精神を育むこと。
- 獅子 思想から自由になり、納得できないことには否を唱えること。
- 幼子 無垢に世界を楽しみ、自分で新しい価値を創造していける境地。
ニーチェは、このステップに優劣はなく、そしてまた、どの段階も欠くことはできない重要なプロセスであると説きました。
晩年は自伝を執筆しながら衰弱していった
自伝の執筆
自伝も執筆しておったんじゃの〜
少しでも私の考えを世に広めたかったんです!ただ、執筆し切れなかった著書もあって本当に悔いが残ります。
ニーチェは44歳の誕生日に自伝「この人を見よ」の執筆を始めます。
この著書は自信に満ち溢れた表現がちりばめられ、晩年のニーチェが、自身の考えに絶対的確信を持っていたことがうかがえます。この頃のニーチェは、体調も回復の兆しが見え、精力的に活動していたようです。
「力への意思」という著書も加筆していましたが、ニーチェはこの作品を完成させることができませんでした。
発狂の末に55歳で肺炎により死去
どうしてこんなに狂気じみた事してしまったのじゃ?
恋人に振られニヒリズムの主張をとる中で少しずつ精神が病んでいったのでしょう…
当時は、友人に狂気じみた手紙も送っていたそうです。
45歳の時、突然ニーチェは発狂します。トリノの広場で、鞭で打たれる馬車馬にすがりつき「おお、かわいそうに」と涙を流して崩れ落ち、そのまま意識を失ったと伝えられています。
ニーチェはそのまま精神病院で過ごすことになり、母や妹が面倒を見ていたようです。この頃になってやっと、ニーチェの考えは少しずつ世に知られはじめ、受け入れられるようになっていきました。
しかし、ニーチェは次第に弱視と麻痺が進行していき、意思の疎通すらままならなくなっていました。発狂から10年、ニーチェはやっと日の目を見ようとしていた思想を、自ら伝えることができないまま、55歳で肺炎により死去しました。
「力への意思」の出版
しかし、執筆途中であった著書が死した後にこうして出版されたのは良かったの!
妹には感謝しています!妹は自身にもメリットがあるから出版したのもあるでしょうがこうして少しでも形に残るのは私としては嬉しいですね。
ニーチェの死後、妹のエリーザベトにより、未完成のまま編集された「力への意思」が出版されました。
「力への意思」という著書はニーチェがニヒリズムから「積極的ニヒリズム」への思想の転換を遂げたことから着想し、「すべてのものは、強くなろうという本能がある」という考えでした。
繁殖し勢力を強めようとすること、戦いに勝ちたいと思う心など、生物の本能や人間の心理まで、この法則が当てはまるのです。ここからニーチェは、ニヒリズムは必ず「積極的ニヒリズム」に昇華できると確信を持ちます。
「力への意思」は有名なアドラー心理学にも影響を与えるなどしており、彼女の行動が、ニーチェが後世に名を遺す一助になったことは確かです。
ニーチェ – 名言
到達された自由のしるしは何か? – もはや自分自身に対して恥じないこと。
すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。
孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はもっともよく知っている。孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを発明しなくてはならなかったのだ。
真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての”真実”の疑いから始まる。
愛が恐れているのは、愛の破滅よりも、むしろ、愛の変化である。
愛の終わりはいつも善悪を越えたところで起こる。
私はあなたに助言する。友よ、人を懲らしめたいという強い衝動を持つ者を信用するな!
成熟とは、子供のとき遊戯の際に示したあの真剣味をふたたび見出したことである。
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
経験は、経験に対する欲望のように消えることはない。私たちは経験を積む間は、自らを探求しようとしてはいけない。
自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段となり得る。
考え過ぎたことはすべて問題になる。
男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。男が女を愛するのは、それがもっとも危険な遊びであるからだ。
私を破壊するに至らないすべてのことが、私をさらに強くする。
目的を忘れることは、愚かな人間にもっともありがちなことだ。
死後に生まれる人もいる。
いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ。
忘却はよりよき前進を生む。
結婚するときはこう自問せよ。「年をとってもこの相手と会話ができるだろうか」そのほかは年月がたてばいずれ変化することだ。
夢想家は自分自身に嘘をつくが、嘘つきは他人にだけ嘘をつく。
人が意見に反対するときはだいたいその伝え方が気に食わないときである。
信念は、真実にとって嘘よりも危険な敵である。
脱皮できない蛇は滅びる。その意見を取り替えていくことを妨げられた精神たちも同様だ。それは精神ではなくなる。
恋愛感情の中には、いつも若干の狂気が潜んでいる。とは言っても、狂気の中にもまた、いつも若干の理性が潜んでいるものである。
いつまでもただの弟子でいるのは、師に報いる道ではない。
本当の世界は想像よりもはるかに小さい。
この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、危険に生きることである。
怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ。
悪とは何か? – 弱さから生じるすべてのものだ。
人々はあなたの美徳によってあなたを罰し、あなたの過ちによってあなたを許す。
我々一人ひとりの気が狂うことは稀である。しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。
人間は恋をしている時には、他のいかなる時よりも、じっとよく耐える。つまり、すべてのことを甘受するのである。
天国には興味深い人たちが一人もいない。
一切の書かれたもののうち、私はただ、その人がその血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。君は、血が精神であることを知るだろう。
ニーチェ – まとめ
いかがでしたでしょうか。ニーチェが残した著書「ツァラトゥストラはかく語りき」は哲学書としても有名で聞いた事がある方もいると思いますが、かなり難解で避けてきた方も多いと思います。
ですが、ニーチェの思想は至ってシンプルです。
善と悪を決めているのは弱者のルサンチマン(嫉妬心)であり、キリスト教(神)はルサンチマンを正当化するものに過ぎない。そのため、「神は死んだ(神というものはそもそもいない)」という言葉を残します。
「神は死んだ」であるからにしてこの世に善悪は無く、善悪が無いからこそこの世に価値などは無い。しかし、価値が無くとも”超人”(主観的に価値を見出す事はできる存在)になる事で作り出した価値を元に希望に満ちた人生を生きる事が大事であるという主張です。
ニーチェの意見は、私たちにとって劇薬となるほどのものです。しかし、この世の真理を最もついた意見であるように感じます。目を逸らすこと無くこの現実を少しでも多くの方に知ってもらいたいと考えたのではないでしょうか。