デカルトについて有名なのは「我思う、故に我あり」という言葉ですね。凄そうな事を言っているのは分かるがどんな意味なのかは分からないというのが正直な感想だと思います。

ただ、デカルトの思想はここだけに留まりません。デカルトを調べると「方法的懐疑」、「二元論」など言葉から意味を理解するのが難しいものまで出てきます。

しかし、この言葉特に「方法的懐疑」はとてもデカルトにとって重要なキーワードで私たちの現代の時代でも用いられている考え方なんです。デカルトについて見ていきましょう。

ルネ・デカルトとは

デカルトの肖像 フランス=ハルス画(1648年) – 参照:Wikipedia

進行はわしが務める!本日はルネ・デカルトがゲストじゃ!
自己紹介してもらおう!

初めまして、デカルトです!私は、とにかく哲学を合理的に考え研究を進めました!その結果、その合理的に考えるという事が近代以降にもマッチして評価されたのです!

ほう。確かに、それまでの哲学は神学との繋がりも強くて精神的な理論も多かったからのう。合理的な哲学研究は画期的だったんじゃのう。

わしも”哲学の祖”と呼ばれておったがお主は、”近代哲学の祖”と呼ばれておるそうじゃぞ?具体的にどんな事を発表したんじゃ?

光栄な事です!代表的なのは「方法的懐疑」といって不確実なものは全て否定していく考え方です。証拠が無いものは全て偽物という事ですね。

すごい事を考えたのう。ただ、その考え方だと殆どのものは偽物になってしまうんじゃないかの〜

さすが、鋭いですね!その通りで、私達がみているものは夢の可能性もあるので全て偽物の可能性を持っている事になります。夢と現実を証明する証拠はないので全て偽物という事ですね。

ただ、夢か現実かを考えている時点で自分という存在は証明できる事に気づいたんです!自分がいなければ夢かどうか考える事すらできないですからね!そうして生まれた言葉が「我思う、故に我あり」です!

デカルトは、近代哲学の祖と呼ばれる人物です。

元々は数学者として名をはせたデカルトは今までのスコラ哲学のような、神を絶対視する哲学から、近代哲学のような合理的思考に基づく哲学へと変える礎を築いたのです。

「心身二元論」と「方法的懐疑」

デカルトの合理的な思考による哲学の代表的なものとしては、「心身二元論」と「方法的懐疑」という主義があります。

二元論とは、この世の原理は全て二つの区分から成り立っているという理論です。心身二元論は、人間は身体と精神から出来上がっているという理論になります。

方法的懐疑とは、この世に存在する物で少しでも不確実な要素が存在するのであればその物事に対して否定的な立場を取る事です。

我思う、故に我あり

デカルトの遺した名言の中でも最も有名なのは、「我思う、故に我あり」だと言えるでしょう。

「我思う、故に我あり」とは、物事の確からしさは不明瞭だけれども、思考するという行為を行なっている私という存在だけは確かであると言えるという考え方です。

この名言はデカルトの著書「方法序説」に載っており、デカルトを代表する言葉となりました。デカルトは「我思う、故に我あり」という考えを哲学の第一の原理とし、学問の真理を探求するために奔走しました。

デカルト座標軸を作った数学者

デカルトが哲学者として活動、執筆を行なったのはオランダで隠遁生活を初めたときです。それ以前のデカルトは様々な学問を学んでおり、特に数学者としては非常に優秀でした。

数学において中学数学以降で用いる、x軸y軸を引いて、x=1、y=2の座標を点で表すあの「座標軸」という考え方を作ったのはデカルトです。

デカルトの幼少期

スコラ哲学の授業様子 – Wikipedia参照

フランス医師の家系で生まれる

哲学を志すものはやはり比較的裕福な家に生まれている事が多いのう〜

聡明な家庭に生まれて学問の楽しさを知れたのは良かったです!ただ、生まれつき体が弱くて病気がちでした…

デカルトは、1596年の3月31日にフランスのトゥレーヌ州、ラ・エーという地域に生まれました。祖父、曾祖父は医者の家系、父はブルターニュ高等法院官であり、聡明な家系に生まれています。

デカルトが1歳の頃、弟を出産した後に母親が亡くなってしまいます。弟も3日でこの世を去りました。デカルトはこの事実を知らされず、「自分を産んだあとに母は亡くなった」と信じ生きてゆきます。

そのような病弱な母のもとで生まれたデカルトも病弱な人生を送る事になります。

ラ・フレーシュ学院で学ぶ

幼い頃から優秀だったんじゃの〜

はい、勉学は良かったんですがやはり体が弱くて朝は体調悪くて寝ている事が多かったです。

デカルトは母親を亡くしたあと、祖父のもとで育てられました。デカルトは病弱のため周りより1年遅れて、10歳の時にラ・フレーシュ学院に入学します。優秀な若者が各地から集まる学院でした。

しかし、デカルトは病弱で、特別待遇で個室が与えられたり、朝に寝坊しても許されたりしていました。デカルトはこれ以降も生涯ずっと、朝遅くまで寝ていないと体調を崩してしまう体質でした。

ラ・フレーシュ学院で得たスコラ哲学への疑問

スコラ哲学か。初めて聞くのう。

討論形式で哲学を学ぶ学問です。ただ、結局この学問は、真理を導き出しているのでは無く、「真理らしきもの」を導き出しているだけだと言うことに気づいて哲学からは一旦離れてしまいました。

合理的でないものに納得がいかなかったんです…

ラ・フレーシュ学院は、イエズス会(キリスト教)が創立しておりスコラ哲学を採用していました。学院で様々な学問に触れたデカルトですが、スコラ哲学に対して否定的でした。

スコラ哲学は、討論形式の授業で問題提起された事柄に対し肯定的、否定的な意見を吟味するというやり方でした。しかし、この哲学はあくまでも神学の予備に過ぎず、哲学で説明できない不確実なものは神学が完成すると考えられた学問でした。

当時は少しずつ科学が発展し始め神(キリスト教)が不確実性が増していた背景があります。合理的であったデカルトは、スコラ哲学に対して「真実らしいもの」を導き出すだけに見えると考え、スコラ哲学から離れました。

数学者デカルトの誕生

ポワティエ大学の紋章 – 参照:Wikipedia

大学卒業後、オランダで軍隊を志す

なぜ、急に軍隊を志す事になったんじゃ?

学校で書物を読んで勉強していても本当の真理を掴む事ができないように感じたんです。外の世界に出て実践で学ぼうと思ったんです!

デカルトは、18歳でラ・フレーシュ学院卒業後、父と同じく法学を志しポワティエ大学へ入学します。しかし、その卒業後は父の意には沿わず、22歳のときにオランダの軍事学校へ入ります。

デカルトは学生生活で書物を読み漁り知識を得る「書物の学問」をしていましたが、「世間という大きな書物」に飛び込んでいく事を決意したのです。つまり、書物ではなく、実践で学びを得るため軍事学校への入学する事を決意しました。

イサク・ベークマンとの出会い

このベークマンとはどんな人物だったんじゃ?

ベークマン先生は自然学者です。今でいう数学者ですね!ベークマン先生の目に偶々残り一緒に研究できたのは凄い私にとって幸運でした!

デカルトが志願兵として入隊したのは、オランダのブレダにあるナッサウ公マウリッツの軍事学校でした。

軍事を志し入隊しましたが、廊下に貼ってあった数学の難問をすらりと、それも画期的な方法で解き出したデカルトは、オランダ人の自然学者(現在でいう数学者)、イサーク・ベークマンに見初められることとなります。

 イサーク・ベークマンと共同研究に没頭しつつも軍人としての経験も積み、デカルトはオランダを離れ、三十年戦争の戦場であったドイツへ赴任します。

「驚くべき学問の基礎」を発見

お主結構フラフラしておったんじゃの〜

はい、私もそれは感じていて真剣に考える時間を作りました!そうしたら今後の人生に関わる大きな発見をする事に繋がりました!

後の”方法的懐疑”の可能性を感じて哲学を改めて研究し直そうと思ったんです!

ドイツへ向かう途中に滞在したある村で、これからの自分自身の道を探すためデカルトは部屋に立てこもります。そこで、今後の人生を変える「驚くべき学問の基礎」を発見します。

「驚くべき学問の基礎を発見した」と、デカルトの残したメモに残っていました。恐らく後ほど出てくる「方法的懐疑」などについて発見したのでしょう。

哲学者として歩んだ壮年期

『省察』(1641年) – 参照:Wikipedia

パリでの哲学者との出会い

なるほど、そうして哲学者への道を歩き始めたのか。

はい、色んな地を回って哲学者と交流を重ねる事で自身の哲学論もより堅いものになっていきました!人々に自分の構想を演説する事で少しずつ私の考えが広まっていきました!

兵としての役目を終えたデカルトは、1623年から1625年にかけ、学問の知識や経験を求めヨーロッパを渡り歩きます。ヴェネツィア、ローマを訪れたあと、見識者が多く滞在しているパリにしばらく住むことを決意しました。

パリ在住中、デカルトはたくさんの見識者と交流します。パリはメルセンヌを中心として活動していたデカルトは、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなど哲学者とも交流するようになります。

そして、デカルトの哲学者としての歩みが始まります。彼は、教皇使節ド・バニュの屋敷において公衆に向かって自らの哲学的構想を明らかにました。そこには修道会の神父たちもいて、デカルトは彼ら神父に対し新しい哲学の構想を流布することに成功したのです。

オランダへの定住を決める

また、オランダに戻ったのか。落ち着く事がないの〜

すみません(笑)
パリで存分に活動できたので静かな地で哲学を更に研究しようと思ったんです!執筆活動もしたかったですし。

デカルトはパリでの活動を経て、秩序があり便利であるにも関わらず静かな隠遁生活が送られると考え、哲学構築に専念するため1628年からオランダへの定住を決めます。以降晩年1年前にスウェーデンに赴くまで、オランダでの生活を続けました。

 ここでデカルトは、哲学のさらに基礎的な考え方を学ぶ形而上学に没頭し、デカルトの思想が形作られていきました。「世界論」をはじめとし、「方法序説」や「省察」などの数々の著書は、このオランダ定住中に執筆されたものです。

デカルトの思想、「方法的懐疑」「心身二元論」

なるほど、ここで”方法的懐疑”が初めて形になったんじゃな。ところでこの”心身二元論”とはどんなものなんじゃ?

はい、”心身二元論”も私が残した著書で主張した内容の一部で肉体とは精神の入れ物であり従属関係があると主張しました!

デカルトの思想で特筆すべきなのは、学問の礎を築いた”方法的懐疑”と”心身二元論”でしょう。それらはデカルトの著書「方法序説」、「省察」という著書に記されています。

方法的懐疑

「方法的懐疑」とは、この世にある確からしいものを全て疑い、疑いの余地があるものは否定的に考える事が物事の真理にたどり着く方法だとする考え方です。

しかし、この考え方はこの世の全てのものが不確実、つまり偽物である可能性を示しました。そこで、かの有名な「我思う、ゆえに我あり」という言説が登場します。

「我思う、ゆえに我あり」とは

デカルトは、方法的懐疑によって、少しでも不確実性のあるものは偽物である考えました。そうすると、目の前にあるもの全てが偽物の可能性を持つという事に気づいてしまいました。何故でしょうか。

それは夢の存在です。夢は現実だと思っていても目が覚めると夢だった事に気づきます。そのため、今目に見えている物が全て夢が映し出しているだけかもしれないのです。

夢の存在を認識した事で、デカルトは全てが偽物の可能性を持つという事に気づいたのです。しかし、ここでデカルトは考えました。考えている時点で私という存在は在る事になるのではないかと。

デカルトの考えでは、夢か現実かの判断はつける事はできないが、夢か現実か考えている時点で自分は存在している事の証明になるというものです。何故なら自分が存在していなければ夢か現実かを判断することはできないからです。

 この方法的懐疑については、「方法序説」という著書を通してデカルトが41歳の時に発表されました。実は著書の正式名称はもっと長く、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話」というものです。

「方法序説」でデカルトは真理を探究するために自らに4つの精神的規則を課します。

  1. 私が明らかに正しいと認めたもの以外、何も受け入れない
  2. 問題をできるだけ小さな部分に分けて考える
  3. もっとも単純なものから始めて、秩序立って複雑なものへと至る
  4. 見落としがないか、すべて再検討する

 この中で重要となるのが、”1.私が明らかに正しいと認めたもの以外、何も受け入れない。”であり、方法的懐疑に則った規則となっています。

心身二元論

デカルトを語る上でもうひとつ外せないのが「心身二元論」です。

デカルトは、肉体と精神を語る上で「肉体は精神の入れ物にすぎない」と主張しました。この考えには、「身体よりも精神の方が高尚である」というデカルトの思想が読み取れます。

「心身二元論」に対し、「一元論(精神と肉体が繋がっているという考え)」の方が根強く、デカルトは多くの批判を浴びました。一元論者は、精神的な感情から肉体に出る反応(緊張で震える、恐怖で涙がでる)を元に精神と肉体のつながりを主張します。

それに対しデカルトは「精神を磨くことで肉体をコントロールできる」とし、あくまで精神と肉体は別のもの、かつ精神と肉体は従属関係にあると主張しました。

デカルトの晩年

クリスティーナ(左)とデカルト(右) – 参照:Wikipedia

スウェーデン女王からの招待

生きている間に研究が評価されるとは凄いのう〜

当時は、画期的だったみたいですからね!ただ、このスウェーデン女王との関わりが悲劇を生むことになります…

著書の執筆や研究によって数々の実績を残したデカルトは、1649年にスウェーデン女王であるクリスティーナから三度の招致を受けます。更には、スウェーデンの海軍提督が軍艦を携えてデカルトをスウェーデンへ、と迎えに上がりました。

その招待をデカルトは受け入れ、10月にスウェーデンのストックホルムに到着しました。

女王への早朝講義を経てこの世を去る

まさか、招待されて翌年に亡くなってしまうとは…

ええ、、
招待された事は良かったんですが、女王様に授業するために早起きしていましたがそれが影響で体調を崩してしまいました…

スウェーデンに行ってから死ぬまで僅か数ヶ月ですよ…

招致されたデカルトは、翌年からクリスティーナ女王のために早朝講義をはじめました。デカルトはキリスト教の学もあるため、献身的に女王に奉仕しクリスティーナ女王はカトリックに帰依しました。

しかし、幼少期からそうであったように、朝5時の早朝からの活動はデカルトにとって厳しいものでした。しかも季節は真冬で、デカルトの体力は徐々に限界を迎えていました。

そして、とうとう同年1650年の2月に風邪をこじらせて肺炎となり、回復することなくこの世を去りました。こうしてスウェーデンで客死し、デカルトは54年間の生涯を終えました。

デカルト – 名言

最も優れた人間は、最高の美徳だけではなく最大の悪徳も持つ。

架空の喜びはしばしば本物の悲しみよりも価値がある。

だれかが僕の感情を害するとき、悪意が届かないように自分の魂を高く上げるんだ。

楽観主義者は何もないところに明かりを見るが、なぜ悲観主義者はいつだってその明かりを吹き消そうとするのだろうか?

あらゆるものは自明である。

人間の誤りの主な原因は、幼少期に身に付いた偏見である。

実際に人々が何を考えているのかを理解するには、彼らの言葉ではなく、行動に注意を払えばよい。

難問はそれを解くのに適切かつ必要なところまで分割せよ。

疑いは知のはじまりである。

世界ではなく、自分自身を征服せよ。

不決断以外に深く後悔させるものはない。

我思う、ゆえに我あり。

真理を探究するのであれば、人生において一度は、あらゆる物事をできる限り深く疑ってみる必要がある。

自分自身の思考を除いて、我々の中で絶対的な力など存在しない。

完全数は完全な人間と同様、極めてまれだ。

良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。

秀でたる知性を有するだけでは十分ではない。大切なのは、それをうまく活用することである。

良識はこの世でもっとも公平に配分されているものである。

精神を向上させるためには、学ぶことよりもより多く熟考していくべきである。

デカルト – まとめ

いかがでしたでしょうか。デカルトとは、一言でいうと近代哲学の礎となる考え方を構築した人物です。代表的な考えは、方法的懐疑です。

方法的懐疑とは不確実な要素が在るのであれば否定的な立場を取るという考え方です。真理を探求するためには、この方法的懐疑を出発点として考えて行く事が必要だとデカルトは主張しています。

この方法的懐疑ですが、現代でも用いられています。「疑わしきは罰せず」、多くの方が聞いた事あるでしょう。「疑わしきは罰せず」は刑事訴訟に置いて、被告人に対して検察が有罪である事を合理的に証明できなければ無罪となるという考え方です。

このように身近なところでデカルトの考えに則ったものが残っています。身近な存在に目を向けてみてはいかがでしょうか。