カール・マルクスは19世紀に活躍した人物です。歴史の授業にも盛り込まれた人物なのでご存知の方も多いと思います。

マルクスと言えばマルクス主義や社会主義、共産党主義などとにかく主義という言葉が多く出現しますが、これらの主義は決して難しい考えではありません。

しかし、マルクスの主義を知った上でどの様に考えるかという点は非常に難しいですが興味深い題材になるはずです。是非、記事を読んで考えてみてください。

カール・マルクスとは

1875年8月24日のマルクスの写真 – 参照:Wikipedia

進行はわし、ソクラテスじゃ!本日はカール・マルクスがゲストじゃ!お主の事を簡単に説明してくれるかの?

はい、私は共産主義を主張しました!私の名前を取ってマルクス主義とも呼ばれるそうです!

ほう、共産主義か。それはどの様な主義なんじゃ?

簡単に言うと人々が平等な暮らしをする事を目指した主義の事です。簡単に説明しますね!

日本や諸外国の多くは、資本主義ですよね!資本主義は、例えば会社が利益を出したら国に一部税金として納めますが基本的には会社の財産になります。

つまり、利潤を求めさせ競争を促す主義であるわけです!しかし、それでは競争に負けた人々達と格差が開いてしまいますよね!

そこで私が主張した主義では、利益は基本全て国が管理し国民に分配する形をとります!そうすれば国民が皆平等な生活をおくる事ができるのではないかと考えました!

カール・マルクスは一言で言うと、社会主義と労働運動に強い影響を与えた人物です。彼は思想家、哲学者、後期には経済学者、革命家としての肩書きも持つようになり、生涯の活動内容は実に多いものでした。

カール・マルクスは一言で言うと、社会主義社会主義とは、働いたらその分お金がもらえるといった資本主義に対して否定的な立場をとり、財産や利益を国が管理する事で公平な社会を目指す思想のことじゃ。労働運動労働運動とは、資本家からの搾取や抑圧に対して改善を求めるために労働者が行う運動の事じゃ。に強い影響を与えた人物です。彼は思想家、哲学者、後期には経済学者、革命家としての肩書きも持つようになり、生涯の活動内容は実に多いものでした。

マルクスが説いた思想、いわゆる『マルクス主義』は、後世に多大な影響を及ぼし、今日ではさまざまな解説本や論文が発表されています。

『マルクス主義』とは何か、また、マルクスはなぜその思想に至ったのか、下記で詳しく紹介します。

人生の大半を亡命者として過ごした

カール・マルクスは人生の大半を亡命者として過ごしており、壮年期以降にはプロイセン国籍を離脱しています。プロイセン王国出身でしたが、1つの場所に居着くことはなく、パリやロンドンを渡って生活していました。

また、彼は今でこそ有名ですが、生前は知名度も高くなく、ロンドン在住時代には赤貧に喘ぎ(所持品が無いほどの貧乏)ながら勉学に励んでいたとも言われています。

マルクス主義を主張した

『マルクス主義』とは、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスフリードリヒ・エンゲルスはドイツのジャーナリストじゃ!公私に渡ってマルクスを支えた人物じゃ。によって主張された社会主義思想体系の1つです。

マルクス主義は、財産を国民に共有する事で国民を平等にするべきと考える主義、つまり共産主義を主張していました。その根拠として挙げられる唯物史観、資本論の2つの論理で成り立っています。

唯物史観とは、マルクスが唱えたもので過去の歴史を見て研究し、その後にその法則性と同じ様に移行していくとする歴史観の事です。資本論は、資本主義を弁証法弁証法は、命題に対しての意見から矛盾を生んだとしてもその矛盾によって否定して捨てるのではなく、その意見に矛盾がある事を踏まえた上で合わせ更に良い意見にしていく方法の事じゃ!によってまとめたマルクスの著書です。

カール・マルクスの誕生から大学入学まで

マルクス在学中から10年後の1850年のベルリン大学を描いた絵。 – 参照:Wikipedia

ドイツ・プロイセン王国で生まれる

お主の両親はユダヤ教徒だったんじゃの!

はい、ですが宗派に特段拘りがない両親ではありましたね!幼かったので理由は分かりませんが一家揃ってプロテスタントに改宗する事にもなりました!

818年5月5日に、マルクスはドイツ・プロイセン王国に生まれました。父母ともにユダヤ教徒で、特に父はラビ(指導者)も努めていましたが、自由主義者であるが故に宗派にこだわりを持たず、後にプロテスタントプロテスタントとは、キリスト教の教派の一つじゃ。教派の一つであるカトリック教会の権力が壮大になり搾取が続いた事でできた反抗勢力としての教派がプロテスタントじゃ。に改宗しています。

1824年にはマルクスと彼の兄弟たち、翌年には母もプロテスタントに改宗しましたが、その理由は現在も明かされていないそうです。一説では、反ユダヤ主義の風が強く吹き始めていたからとも言われています。

1830年、彼が12歳のときに生まれ故郷のトリーアにある、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに入学しました。ギナジウムとはヨーロッパの教育機関のことで現在で言う、中高一貫の学校にあたります。

ヘーゲル哲学と出会った大学時代

ほう、大学で哲学に出会ったんじゃのう〜

ヘーゲル哲学に対して、お主はどの様な立場を取っていたんじゃ?

はい!最初は、ヘーゲル哲学に対して批判的でもなく、保守的でもない立場だったんですが、私の関わっていた友人達が批判的であった事もあって次第に私も批判的な立場になっていきました!

マルクスは最初に入学したボン大学では遊び歩いており、あまり勉強しませんでした。見かねた父からの願い出でベルリン大学に転校しましたが、法学ではなく詩や美術、哲学に興味を持つようになります。

このとき、マルクスはヘーゲル哲学と初めて出会いました。

ヘーゲル哲学とは

ヘーゲルは哲学のあらゆる部門を網羅していたため、哲学を志す者は必ず学ばなければならない必読の古典でした。

ヘーゲル左派の思想に近づく

ヘーゲルの哲学はベルリン大学内でも多大な影響力を持ち、ヘーゲル学派なるものが形成されました。彼の宗教哲学の解釈を巡って意見が分かれており、ヘーゲル右派、ヘーゲル左派、ヘーゲル中央派の3グループに分裂していきます。

右派、左派とは保守的若しくは革新的を指します。右はヘーゲルの考えに対して賛成している保守的な姿勢を持つ者達。左はヘーゲルの考えに批判的で革新的な考えを持つ者達と言う事です。

マルクスは当初中央派に分類されていましたが、左派寄りの教授の授業を熱心に受けたり、左派哲学者の集まりに参加したりして、徐々に左派的思考に寄っていったそうです。

1841年に哲学博士号を取得

この博士号を取得する際の論文提出は中々大変だったそうじゃのう!改めて説明してくれんかの?

そうですね(笑)

この頃は丁度、国の王が代わり保守的な王が即位して、左派の私たちは論文の文章や発言などとても制限がかかったんです!

ベルリン大学よりイェーナ大学の方が早く審査が終わると言う事だったので国の検閲を逃れるためにイェーナ大学で提出する事にしたんです!

1840年から徐々に広まった言論統制言論統制とは、政治権力が報道や出版に対して制限を行う事じゃ。の影響を避けるため、マルクスは博士号取得のための博士論文を、イェーナ大学に提出しました。

題を『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』とし、哲学博士号を無事取得したこの論文は、ヘーゲル哲学とヘーゲル左派的思想の両方を倣っています。

マルクス主義に至るまで

マルクスが編集長を務めていた『ライン新聞(ドイツ語版)』 – 参照:Wikipedia

ベルリン大学卒業後

博士号を取得し、大学卒業した後はどの様に過ごしておったんじゃ?

本当は左派の友人を通して大学教授になりたかったんですが、その友人も言論統制によって解任間近状態だったので頼りにはならなかったんです。

色々、自分の考えを書き広めようと思ったのですが、検閲に引っかかってしまって意欲とは裏腹に結果が出ない状態でしたね…

マルクスは博士号を取得したあと、故郷のトリーアへ帰りました。

マルクスは大学教授になりたいと思っていましたが、依然としてプロイセン政府による言論統制の勢いは留まるところを知らず、当時に頼みの綱であった教授の知り合いも宛てになりませんでした。

宛てを失い大学教授の夢を挫折したマルクスはアーノルド・ルーゲが出版した『ドイツ年譜』に寄稿する形で、プロイセンの検閲制度を批判しようと試みました。しかし、政府による検閲のために、掲載は叶いませんでした。

マルクスはドイツでの執筆を諦め、彼の友人らも参加する『ライン新聞』に目を付けました。そこで編集長も務めていましたが、検閲強化の影響でやはり長期間の刊行は叶いませんでした。

自身の立場を共産主義と定義する

この頃から共産主義を支持する様になったのか!きっかけはなんだったのじゃ?

きっかけは、後に私を支えてくれたエンゲルスの論文を見て感銘を受けた事ですかね!エンゲルスは共産主義を支持していたので!

後は、やはり当時の言論統制の様に権力を持った者が国民を抑圧する姿勢に疑問を感じたんです!

1844年にマルクスは、ルーゲやハイネらと共に、『独仏年誌』に論文を寄稿しました。そのとき彼は、独仏年誌へ一緒に寄稿されたエンゲルスの論文に強い感銘を受けます。

エンゲルスは、私有財産制や、それを良しとする国民経済学国民経済学とは、資本主義的な考えを認めておった学問じゃ。を批判していました。以降マルクスは経済学や社会主義についての研究に熱意を見せるようになりました。

彼は、『国民経済学者』は私有財産制の説明のために労働者を人間と認めずに単なる『労働機能』としてしか見ていないことを指摘しました。この頃になって、マルクスは自身を共産主義の立場と定義付けました。

私有財産制とは

私有財産制は、工場や原料などの物を生産する手段を個人が自由に所有して良い制度のことを言い、資本主義社会の根底になっている制度です。

問題点として、資本主義社会の発展と共に生産手段を持つ階級と、そうでない階級との格差が広がってしまうことが挙げられ、現在では私有財産制度にさまざまな法的制限が加えられるようになりました。

共産主義とは

私有財産制度とは異なり、財産を皆で共有し、階級社会や搾取をなくした平等な社会を目指す主義です。

唯物主義を確立させる

ここで唯物主義か!お主は主義がとても多いのう〜

この唯物主義はどの様なものなのじゃ?

そうですよね(笑)

唯物主義とは、歴史の法則性を見て現代に当てはめていく主義の事です。私は、現在ある宗教や哲学、道徳は全て生産と関連した人間関係から生まれたものと考えていました。

マルクスは1845年から、エンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を執筆しましたが、出版社を見つけられなかったために、存命中に発行されることはありませんでした。

この共著作のなかで、2人はバウアーやフォイエルバッハ、『真正社会主義者』と呼ばれるヘスやカール·グリューンらを否定しました。

また、『ドイツ・イデオロギー』と同じ頃、マルクスは、『生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教や哲学、道徳は全てそこから生まれた』と主張しました。この主張は、唯物主義と言いマルクスの思想の中でも最も注目される考え方です。

革命を恐れぬマルクス

唯物主義については何となく分かったが、なぜお主はこの主義に至った事で当時革命的な行動を起こし続けたのじゃ?

唯物主義に至った事で、とある事に気づいたんです!

私たちの時代の経済学は既に古いものとなっていました。しかし、生産が変わり、生活が変わり、思想が変わった当時では古い経済学が淘汰され新しい主義に変わると考えたのです。

その代わりとなる主義が共産主義だと思いました!共産主義の思想は当時の社会を打ち倒し新しい社会を作る事ができるだけの力を持っていると思い私は革命活動をおこしていったんです!

マルクスは、この唯物主義に至った後には革命をも恐れない行動力を示しました。

そのため、彼は1846年に、ブリュッセルで『共産主義通信委員会』を創設しますが、その運営方法があまりにも独裁的だったため、せっかく集めた仲間を除名にしたり、辞任されたりしてしまいます。

1847年に、マルクス率いる共産主義通信委員会とモル率いるロンドン正義者同盟は合併し、『共産主義者同盟』となりました。その翌年には『共産党宣言』を完成させ、改めて共産主義の目的と見解を明らかにしました。

共産党宣言は第1章から第4章までで構成されており、『一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が』という序文は有名です。

極貧になっても辞めなかった勉強と革命

1882年のカール・マルクス – 参照:Wikipedia

赤貧のロンドン生活

お主は、お金が無く活動が苦しい中でも勉強と革命を続けたのじゃな。その行動意欲は素晴らしいのう!

やはり革命による弊害はあって暮らしはどんどん貧困になりました。ただ、やはり成し遂げたい想いが強かったですし勉強は好きでしたからね!やり続けました!

その後もマルクスは『新ライン新聞』の創刊や革命を起こそうと試みましたが、計画はそうそう上手くいきません。

マルクスは検察官侮辱の容疑で起訴されましたが、己の立場を変えることはありませんでした。起訴後もマルクスは身を隠しながら新聞を発行していましたが、いよいよ廃刊となります。

これまでマルクスはそれなりに豊かな生活をしていましたが、この新ライン新聞発刊のために背負った負債を完済するために無一文になります。

ついぞマルクスはプロイセンから追放され、フランス移住を経てイギリスへと行き着きました。マルクスは既に家賃の支払能力もなく、貧困外国人居住区での生活を余儀なくされました。

大英博物館で執筆活動に専念する

例え貧乏になろうとも、マルクスは勉学への興味を失うことはなく、毎日のように大英博物館にこもって勉強していました。

その頃、離ればなれになっていたエンゲルスをロンドンへ呼び、また新たに月刊誌を出版し、フランス2月革命の経緯を彼特有の唯物主義的視点から解説しました。

やはり雑誌はなかなか売れず、すぐに廃刊となりますが、その後はアメリカの新聞で文芸活動に専念したり、共産主義者同盟を再結成したりするなど、最後まで研究への熱意を冷ますことはありませんでした。

『経済学批判』『資本論』完成

『経済学批判』『資本論』、これらがお主の最後の著書か。どの様な事が書かれているのじゃ?

基本的には当時の資本主義体制の問題点などを吟味し批判した内容になっています。これらの著書が発刊されるまでに私は死んでしまったのでエンゲルスが尽力し刊行してくれました。

1859年に本格的なマルクス最初の経済学書『経済学批判』を出版し、その後『資本論』を発表します。資本論全3部の内、第2部、3部はエンゲルスの尽力により、マルクス亡き後に刊行されました。

マルクス最期の著書では、資本主義の秘密を事細かく暴いており、現代では彼の主張をより簡単に理解するための入門書や解説本が多く出版されるようになりました。

カール・マルクス – まとめ

いかがでしたでしょうか。マルクスの主義は基本的に資本主義と反対の社会主義や共産主義を支持していて、人々が公平である事を目指して主張を続けました。

現在、日本では、資本主義の形になっています。資本主義と共産主義はどちらも問題を抱えていて一概にどちらが良いと決めるのは非常に難しい題材でもあります。

どちらを主張したにせよ、マルクスの様に既得権益既得権益とは、歴史的経緯により維持している権益の事じゃ。を持った者達からの圧力にも臆する事なく挑み続けた姿勢はとても素晴らしいと言えます。皆さんもマルクスの歴史に触れ、主義について考えてみてはいかがでしょうか。