ヘレン・ケラーについて語られるとき、多くは彼女の大学までの半生が語られます。重い障害を抱えながらも懸命に学び、ついにはハーバード大学を卒業した若きヘレン・ケラーの姿は、多くの人間に感銘を与え映画にもなっています。

しかしその後のヘレン・ケラーの活動については知らない人も多いのではないでしょうか。ヘレン・ケラーの生涯と功績についてわかりやすく解説します。

ヘレン・ケラーとは

三重苦を背負った社会福祉活動家

ヘレン・ケラーは幼い時に病気で視力と聴力を失い、話すこともうまくできなかったと言います。壮絶な三重苦を背負ったヘレン・ケラーですが、彼女は人に恵まれました。

両親、そして生涯に渡ってヘレンを支えた師であるアン・サリバンらに支えられ、世界の障害者を救済すべく5大陸、約40ヶ国を訪問し障害者の教育と福祉の発展に貢献しました。

思想と活動

ヘレン・ケラーは福祉のみでなく政治活動にも精力的に取り組んでいます。女性の参政権運動、コンドームを用いた産児制限運動、黒人への人種差別に反対し公民権の適用を求めた公民権運動などに参加しています。

ヘレン・ケラーと日本

ヘレン・ケラーは3度に渡って日本に訪れて全国各地で講演しています。ヘレンの行動は多くの日本国民の胸を打ったそうで、国会では「盲人福祉法(後の身体障害者福祉法)」が提出されるなど政府にも大きな影響を与えています。

幼少期から大学卒業まで

急性鬱血により聴覚と視覚に障害を持つ

ヘレン・ケラーは1888年6月27日、米国南部アラバマ州の北にある町、タスカンビアに生まれました。生後六ヶ月で片言ながら「hello d’ye?(こんにちは)」と言ってみせるなど利発な子供だったようです。

1882年2月、1歳8ヶ月のとき、胃と脳髄の急性鬱血で熱病にかかり、視力と聴力を失いました。ヘレンはジェスチャーによって意思疎通をするようになりますが、自分だけが言葉を発せないことを自覚するようになるとだんだんと不安定な性格になっていったようです。

アン・サリバンとの出会い

ヘレンの両親は彼女に教育を受けさせることを望んだそうです。電話を発明したことで知られるベル博士の手を借り、ヘレンの家庭教師として生涯彼女に付き添い支えたアン・サリヴァンを迎えました。

アンはヘレンの不安定な心に寄り添い、彼女に指文字を通して言葉を教えました。彼女の教育は遊びのなかで行われ、ヘレンは新しいことを知ることを喜び、精神的な安定を得るようになったと言います。

パーキンス盲学校

1989年秋、ヘレンはパーキンス盲学校へ入学します。この頃ヘレンは発声に強い関心をよせ、ボストンのホレースマン聾学校の校長サラ・フラーに発声法を学びます。拙いながらも発声に成功した体験はヘレンに大きな感動を与えたといいます。

学業におけるヘレンは大変すぐれており、同年代の優秀な学生らと同等の成績を得ていたそうです。

アンとヘレンの教育的成功は多く取り上げられ、世界的に有名になります。この時期ヘレンは孤児で盲聾の5歳の少年のため募金を募っといます。募金額は1600ドルにも登り、孤児の男の子はパーキンズ盲学校への入学を果たしました。

ラドクリフ・カレッジでのヘレンケラー

アンの支えを受けヘレンは熱心に勉強し、ラドクリフ・カレッジへの入学を果たします。ラドクリフ・カレッジは当時ハーバード大学の女子部であり、現在はハーバード大と合併しています。つまり彼女は視覚、聴覚にハンデを背負いながらハーバード大学への入学を成し遂げたのです。

大学生活においてヘレンは精力的に学習しています。特にニーチェ、ショーペンハウアー、カール・マルクス、ベルグソン、トルストイなどについて語ることを好んだと言います。またヘレンはこの時期、処女作である「私の生涯」を著しています。

『私の生涯』

ヘレン自身の物語、ヘレンへの教育に関する解説、アン・サリヴァンの略歴によって構成されており、1996年ニューヨーク公共図書館により、『20世紀の重要な100冊の図書』のひとつに選ばれています。

壮年期

政治活動への参加

大学卒業後ヘレンは盲人への救済活動や著作活動の他、政治活動にも関わっていきます。アメリカ社会党に入党し、社会主義への理想をかかげ熱心に活動しています。

サリバンの死と来日

アンは1930年ごろから、アンの体を病が蝕みはじめヘレンが56歳の時、アンはこの世をさります。アンはヘレンに日本からの来日要請に応えるよう遺言を残しています。アンの後押しもありヘレンは1937年、秘書のポリー・トンプソンとともに来日しています。

世界各地での活動

ヘレンは障害者への福祉、教育の発展のため世界各国を歴訪しています。1951年には南部アフリカ、1952年から57年にかけて中東、中部アフリカ、北欧、そして日本を訪れています。

晩年

『大統領自由勲章』の受勲

1964年、ヘレンはアメリカでもっとも名誉のある賞「大統領自由勲章」をジョンソン大統領から授与されています。

ヘレン・ケラーの最期

1968年、6月1日、ヘレン・ケラーは87歳で亡くなりました。遺骨はナショナル・カテドラルの地下、アン・サリヴァンのそばに安置されたそうです。