ニュートンを重力を発見した物理学者として知っている人は少なくないはずです。

ニュートン力学の確率から微分積分法の発見まで、ニュートンの業績は多岐に渡ります。後世に大きな影響をもたらした物理学の巨人の功績と歴史をわかりやく解説します。

アイザック・ニュートンとは

ニュートンへの誤解と万有引力の発見

一般的に重力の発見者として知られるニュートンですが、ニュートンが発見したのは重力ではありません。

ニュートンの時代、ガリレオ・ガリレイ等の功績で、「物体が地球に向かって引き寄せられている」ということはすでに知られたものでした。

ニュートンは「万有引力の発見」を通して重力の仕組みを解き明かした人なのです。では「万有引力の法則」とはいったいどのような法則でしょうか。

万有引力の法則

万有引力とは文字通り、全ての物質が持っている互いに引き寄せ合う力(引力)のことです。

そして万有引力の法則とは、「2つの物質の間には物体の質量に比例し距離の2乗に反比例する引力が働く」という万有引力の特性を表した法則です。

全てのものは引力を持っていますがその力は質量に比例します。地球上の各物体の持つ質量では、それら物体間に働く引力はそう大きくはなりません。

しかし惑星規模のサイズになると引力は大変大きくなります、これが重力と呼ばれるものです。ちなみにあまりにも質量の多い物体になるとその引力も膨大となり、光すらも引き込むブラックホールとなります。

ニュートンの運動三法則

ニュートンは、運動の法則を基にニュートン力学を確立しました。ニュートン以前の力学は静止物体の力の釣り合いを扱いましたが、ニュートンは物体の運動を扱う動力学を体系化しました。

ニュートンの運動3法則は慣性の法則、加速度の法則、作用反作用の法則で構成されています。

慣性の法則

全ての物体は外部から力を受けない限り、静止せている物体は静止し続け、運動している物体は等速で直線方向に運動を続けるという法則です。

加速度の法則

物体が受ける力は、物体の質量と加速度の積に比例するという法則です。この法則は運動方程式とも呼ばれます。

作用反作用の法則

物体が他の物体に力を加えられる際、物体は力を加えた物体から同じ大きさの逆向きの力を受けるという法則です。

プリズムによる分光の実験

ニュートンは白色光が全ての色の混合によって出来ていることを発見しました。またそれぞれの色によって光の屈折率が異なることをプリズムを用いた白色光の分割によって示しました。

微分積分法の発見

微分積分法の発見者としてはライプニッツが有名ですが、同時期にニュートンもこれを発見しています。二人はどちらがこれを発見したのかということについて25年に渡って争いました。

生誕から大学まで

不安定な少年期

ニュートンは、1642年のクリスマスにイギリスの東海岸に位置する小都市グラサムの付近の寒村にて生まれました。

父親はニュートンの生まれる三ヶ月前に他界し、ニュートンが3歳の時、母であるハナ・アスキューはニュートンの養育費の確保のためもあり、牧師のバーナバス・スミスと再婚しています。

祖母に養育されることになったニュートンは母の選択に大いに反発し母の家に放火を仄めかすなど,この時期は不安定な心理状態であったそうです。

学問との出会い

1655年、ニュートンはグランサムスクールに入学しています。母親の知り合いであった薬剤師の家に下宿し、ニュートンは薬学に興味を持ちました。彼はこの時の経験から終生に渡って自分で薬を調合しています。

ニュートンが13歳の時、母親の再婚相手であったバーナバス・スミスがなくなったことで母親が帰郷し、ニュートンは母の農業を手伝うために退学をしています。

学業の重要性を認めなかったハナですが、ニュートンが農作業を放置し、科学や水車作りに熱中する姿を見てケンブリッジ大学のトリニティカレッジへの入学を認めました。

ニュートンは大学入学に向けてこの時期、聖書、算術、ラテン語、古代史、そして初頭幾何学などを学んでいます。

ケンブリッジ大学時代

ニュートンは1661年に給費生(大学での雑用業務を行う代わりに授業料を免除される仕組み)としてケンブリッジ大学に入学しました。給費生としての立場や周囲との家柄の差によってニュートンは同級生とはうち解けなかったようです。

自然哲学への興味とアイザック・バロー

当時、大学教育の主流はアリストテレスの学説に基づくスコラ哲学が占めていましたが。ニュートンは数学や自然哲学を好みユークリッドからデカルト、そしてケプラーなどを学んだそうです。

1663年、ルーカス数学講座の初代教授であるアイザック・バローにニュートンは師事します。バローはニュートンを高く評価し庇護しました。バローの助力を得てニュートンは奨学生となり、翌年には学位を取得しています。

故郷での休暇

1665年、ロンドンでのペストの流行からニュートンは故郷での休暇を取ることになります。この休暇中にニュートンは万有引力、微分積分法、プリズムの分光実験などの着想に没頭しました。

この18ヶ月に及ぶ休暇期間にニュートンの三大業績が全てなされたことから、この期間は「驚異の諸年」「創造的休暇」と呼ばれています。

また、ニュートンの逸話として有名な木から落ちるりんごを見た時期もこの時期とされています。

壮年期

ケンブリッジ大学で教鞭を執る

ペストの収束後、ニュートンはケンブリッジ大学の教員になっています。この時期「無限級数の解析」や「流率の級数について」などの論文を発表しました。

「自然哲学の数学的諸原理」を執筆・刊行

1669年、ニュートンはバローの申し出を受けルーカス教授職についています。この時期に彼の主要な著書である「光学」「自然哲学の数学的諸原理」が執筆、刊行されました。

ニュートン力学体系の解説書で、古典力学を基礎づけた近代科学において最も重要な著作の一つです。この著書の中でニュートンは運動の三法則、万有引力そして天体の運動を取り扱っています。

王立造幣局勤務

大著「自然哲学の数学的諸原理」執筆後、ニュートンは学術闘争に巻き込まれ、大学の外に地位を求めます。

教授時代、下院議員職なども勤めたニュートンですが、政治には興味を示さず弟子のモンターギュの紹介で王立造幣局の長官になっています。ニュートンは精力的に働き、偽金製造の取り締まりや汚職の洗い出しにおいて多大な成果をあげています。

造幣局時代の研究

造幣局での職務の傍、ニュートンは錬金術の研究に没頭しました。けっして科学的なアプローチではありませんでしたが、ニュートンの残した錬金術研究はこの時期のニュートンを知るために大変注目されています。

晩年

晩年、ニュートンは自然哲学の研究への功績でアン女王からナイトの称号を受けています。授与から20年後の1727年、85歳でその人生に幕を閉じています。