アルトゥール・ショーペンハウアー、名前だけなら聞いた事がある方も多いかもしれません。しかし、その思想にはペシミズムや厭世思想といった聞き慣れない単語が付いて回ります。

単語自体は難しいイメージですが、ショーペンハウアーの思想自体は比較的分かりやすい内容です。この記事を通してショーペンハウアーを知ってみてください。

ショーペンハウアーとは

『意志と表象としての世界』完成の三年前、27歳頃の肖像。L・S・ルール画 – 参照:Wikipedia

進行はわし、ソクラテスじゃ!今日のゲストはショーペンハウアー!厭世思想についていろいろ語ってもらうとしよう。

どうもはじめまして。アルトゥール・ショーペンハウアーと申します。私の思想は、プラトン先生やカント先生を学ぶことから始まっています。

私は、世の中は進歩しているのではなく、変化しているだけだと考えました。

社会は形が変わっているだけで、決して良くなっているわけではないのだから、個人の苦悩が無くなることはないのです。

ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、「人間の本質は意志である」と主張し、ペシミズム(厭世思想)を展開しました。

彼は、主著『意志と表象としての世界』で、意志の哲学を主張しました。また、晩年に著した名言たっぷりの『随想録』は、多くの人に読まれることになりました。

ペシミズム(厭世主義)を展開

ショーペンハウアーの思想における、ペシミズム(厭世主義)とは、社会全体がどれだけ変化していっても、個人の苦しみが消えることはない、という考えのことです。

ショーペンハウアーは、革命や戦争による不安定な時代に生き、また若くして父を亡くしています。そのような背景が彼の哲学に影響を与えていたと考えられます。

ニーチェに影響を与える

彼の思想は多くの人々に影響を与えましたが、その中には、「神は死んだ」という言葉で有名な同じドイツの哲学者・ニーチェも含まれていました。ニーチェはショーペンハウアーの「意志の哲学」をもとに思想を発展させていきます。

ショーペンハウアーが哲学者になるまで

少年時代のショーペンハウアー。 – 参照:Wikipedia

出生と幼少期

お主は子供の頃は商人になろうとしていたそうじゃな。

父が私を商人にしたかったんです。子供の頃から恵まれた教育を受けさせて貰いましたが、優れた商売人になるための勉強でした。私自身は商人になりたいとは思っていませんでした。

1788年、アルトゥール・ショーペンハウアーはドイツのダンツィヒに生まれました。ショーペンハウアーの父親ハインリヒは裕福な商人であり、幼い頃から息子に商人になる英才教育を施し、自分の後継ぎにしようと考えていました。

ショーペンハウアーは本当はギムナジウムへの進学を希望していたのですが、父親に反対されてしまいます。

そのため、ショーペンハウアーは商業学校に行き、その後ハンブルクの商家で修業をするようになりました。しかし、彼は自分は商売には向いていないと考えており、学問をしに大学に行きたいと思っていました。

哲学の道へ

何がきっかけでお主は哲学の道へ進む事を決意したのじゃ?

私の幼い頃、商人になる事と引き換えにヨーロッパを巡る長期の旅行に連れて行って貰った時に、社会の底辺の人々の生活を見た事がずっと心に引っかかっていました。

そんな矢先に父が亡くなり、商人になろうという気持ちが日に日に失われ、学問をしたいという思いを止められなくなりました。それで母に「大学に行きたい」と手紙を出したのです。

ショーペンハウアーが17歳の時、突然父が不慮の死を遂げてしまいます。死体は、父の店の倉庫近くの運河で発見され、自殺なのか他殺なのかさえわかりませんでした。加えて、遺言もありませんでした。

母のヨハンナは、ショーペンハウアーを置いてワイマールに移住してしまいました。ワイマールは当時、ドイツ文化の中心地でした。サロンの花となったヨハンナは、その後女流作家として名を挙げることになりました。

一方のショーペンハウアーは、商店の帳簿をつけ続ける日々を過ごします。次第にそれに耐えられなくなった彼は、悩んだ末、「大学に行って学問をしたい」という手紙を母に出しました。

母は、自分自身の人生経験から、アルトゥールが学問を始めるのは今からでも遅くはない、と考えました。そして、自分の人生は自分で決めるべきだ、という手紙を息子に送りました。

こうして、普通は5年かかるギムナジウムの過程をたった2年で終わらせ、ショーペンハウアーは、期待を胸に、ついにゲッティンゲン大学に入学したのです。彼はこのとき21歳でした。

大学生活、そして講師としての孤独な生活

ゲッティンゲン大学旧大講堂 – 参照:Wikipedia

医学から哲学へ転向

さて、大学に進んだお主のその後を聞こうか。

最初は医学部に在籍していたのですが、やはり哲学を学びたくなってに学部を移り、当時の師の指導でプラトンとカントの思想を学んでいました。

その後、ベルリン大学に移り、いよいよ本格的に哲学の研究を始めました。

ゲッティンゲン大学に入学したショーペンハウアーは、はじめ医学を学んでいましたが、途中から哲学を専攻するようになります。翌年からベルリン大学に移り、当時、ドイツで有名だったフィフテの元で本格的に哲学の研究を始めます。

この時は主にプラトンとカントについて研究をしていました。しかし、フィフテの思想に対する否定が生まれ、戦争の影響もあってベルリンを去る事になります。

この後はワイマールの母親の元に行き、母のつてでゲーテとも知り合っています。ゲーテはショーペンハウアーの才能を高く評価しました。また、この頃に、後年の彼の思想を決定づける古代インド哲学を知るようになりました。

『意志と表象としての世界』の執筆

この著書は、どのような内容であったんじゃ?

簡単に説明しますね!

人間が生き続けようとする理由は理性で考えているからではなく、ただただ衝動的に死にたくないという意志があるから生き続けています。

その意志を私は盲目的という言葉で表しているのですが、盲目的な世界は負の感情に溢れています。その負の感情によって変化してきた世界は進歩してきたかのように見えますが実はただ移り変わっているだけなのです。

この私の思想はペシミズムと言われますが、ではその負の感情から逃れるためには何が必要なのでしょうか。

私が考えたのは、芸術に浸り、他者と同情し合うことで苦しみを共有し、最後に苦行と禁欲を乗り越え解脱する事です。

ショーペンハウアーは31歳のとき、主著である『意志と表象としての世界』を出版します。

彼が1歳の時にフランス革命が起き、そしてその後、ナポレオンの台頭により、ヨーロッパは戦乱の地となります。また彼個人の環境も、突然の父の死など、苦悩の多い状況だったと言えるでしょう。

このような出来事が彼の哲学の背景にあります。彼はプラトンのイデア論、カントの認識論を土台としつつ、独自の哲学を展開していきます。

盲目的な生への意志

彼は、世界は「盲目的な生への意志」でできていると考えます。たとえば、細胞は常に弱い細胞を駆逐しながら生き延びようとしますが、そこには意味や目的といったものはありません。

人間の行動もこれと同じで、ただ「存在したい」という意志が起こす制御不可能な衝動に過ぎないと主張しました。

ペシミズム(厭世主義)

盲目的意志でできたこの世界は苦の世界、欲望の渦巻く世界であり、争いの苦しみはなくなることはありません。歴史は進歩しているわけではなく、変化しているだけ。社会の変化などに関わらず、個人の苦しみは永遠に続いていくのです。

このようなショーペンハウアーの思想はペシミズム(厭世主義)と呼ばれます。

苦難から逃れるためには?

では、この世の苦悩から解脱するためには、どうすればよいのでしょうか。それに対するショーペンハウアーの答えは、芸術・同情・解脱です。

一時的であれば芸術に浸るのがよいが、根本的には他者に同情して苦しみを共有し、そしてインド哲学(バラモン教やヒンドゥー教、仏教などのの思想を中心とする哲学)の主張する苦行と禁欲によって解脱することがよいと考えました。

ちなみにショーペンハウアーの寝室には、釈迦の仏像が飾られていたといいます。

著作への批判、ヘーゲルに完敗

当初、お主の最初の著作は世間的に評価は得られなかったらしいな。(笑)

当時の私は無名でしたから、いくら独創的な思想を書いても認めて貰えませんでした。ヘーゲルばかりがもてはやれて、私の思想に興味を持つ者はいなかったんです。

『意志と表象としての世界』は、その独創的な内容と巧みで美しい文章にもかかわらず、世間からの注目を浴びることは全くありませんでした。

なぜなら当時は、弁証法で有名なあのゲオルグ・ヘーゲルの哲学論の全盛期で、ショーペンハウアーのような無名の哲学者が世の目を引くことはあり得なかったのです。

翌年、彼はヘーゲルと同じくベルリン大学の私講師となり、ヘーゲルに対抗してあえて同じ時間に講座を設定します。しかし、やはりヘーゲルが人気は凄まじいもので、ショーペンハウアーの教室はガラ空き。失意のうちにわずか半年で辞職してしまいます。

隠遁から再評価へ

晩年のショーペンハウアー。1855年(67歳)。ジュール・ルンテシュッツ画 – 参照:Wikipedia

辞職し、世捨て人の生活へ

ヘーゲルに破れ大学を去った後のお主はどのように過ごしておったんじゃ?

完全に堕落した生活になってしまいました。執筆活動だけは続けましたが、精神も病みともて苦しい生活でした…

ヘーゲルの人気に圧倒され、プライドを傷つけられてしまったショーペンハウアー。生涯独身だった彼は、二部屋の下宿に犬一匹と共に暮らしていました。

神経病を患ったこともあり、社会との関わりを極力断った世捨て人の生活を送るようになります。しかし、それでも彼は執筆活動を続けていました。

『随想録』の大ヒット

『随想録』とはどのようなものだったのじゃ?

随想録は著者の短編をまとめた雑誌のようなものです。この随想録をきっかけに私の考えは広く世に響きました。

彼は晩年、色々な雑誌に時事短評などを書いていました。ある時、それらの文章が『随想録』としてまとめられると、なんとそれが大きな評判を呼びます。『随想録』は各言語に翻訳され大変なヒット作となりました。

『随想録』のヒットにより、次第に彼の今までの著作にも注目まで集まるようになっていき、ショーペンハウアーは時代の哲学者となるのです。自分の思想が社会に認められたショーペンハウアーは、明るい表情を取り戻します。

彼は1860年、72歳でこの世を去りましたが、彼の思想は後世の人々に影響を与えていくことになります。

ニーチェなど、人々への影響

ショーペンハウアーの厭世思想は、当時の不安定な時代にマッチしていたため、多くの人々の共感を呼びました。

哲学者ニーチェは21歳の時に、ふと古本屋で買った『意志と表象としての世界』を読み、ショーペンハウアーの「意志の哲学」に心酔します。ショーペンハウアーの存在がなかったら、哲学者ニーチェは生まれていなかったかもしれません。

他にも、ロシアの文豪・トルストイや、映画俳優チャップリン、また森鴎外や堀辰雄といった日本人作家など、後世にいたる人々まで広く影響を与えました。