ソクラテス、哲学に対して詳しくない方も一度は聞いた事がある名前でしょう。ソクラテスは、紀元前に活動していた哲学者です。そんな時代の哲学者が何故未だに語り継がれているのでしょうか。
ソクラテスと聞くと、”問答法”や”無知の知”というキーワードが出てきませんか。このキーワードソクラテスを語る上では欠かせないものなので是非覚えておいて下さい。分かりやすく解説していきます。
ソクラテスとは
いつもなら進行係は先生の役目ですが、今回は先生がゲストなので弟子である私、プラトンが進行を努めます!
今回のゲストは、ソクラテス先生です!!
大々的な紹介じゃの!私がソクラテスじゃ。
古代ギリシアのアテナイ(現在のアテネ)で人間はどのように生きれば良いのか考え活動しておった!
先生の代表的なのは、「無知の知」ですよね!
そうじゃ、わしは何も知らんからの〜。ただ、知ってるのはわし自身が何も知らないという事だけじゃ。
わしは無知じゃったから自分より賢い人を探すため、賢いと称される人に質問して回っていたんじゃ!
その質問が問答法と呼ばれるようになったんですね!
そうじゃ。随分大それた呼び名だがのう〜
まず、相手がざっくりとした命題を出し、その命題に対してわしが質問して相手が答えるという討論を繰り返していたのじゃ。
結局、出された命題の答えを知っているものは誰一人としておらんかった…
ソクラテスは、一言で言うと哲学者の祖として人間の生き方について考え、人々に説こうとした人物です。哲学という概念もソクラテスから始まりました。
哲学の創始者であるソクラテスは、『無知の知』という独自の考え方に至り、多くの人びとに問答法という質問を繰り返し議論しました。
『無知の知』とはなにか、また、なぜソクラテスはその思想へ至ったのか、下記で詳しく紹介します。
自分より賢い人を探した
ソクラテスの弟子、プラトンが遺した著書『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテスの弟子の1人があるとき、信託所で「ソクラテス以上の賢者はいない」と聞きました。
ソクラテスは自分のことを賢い人間だとはこれっぽっちも思っていなかったので、それを受けて驚きました。そのため、ソクラテスは自分よりも賢い人と出会おうとします。
しかし、彼はかえって世間で賢者と呼ばれる人びとが、立った評判に見合うほどの知恵がなく、物事を良く理解していないことに気がついてしまいました。
ソクラテス式問答法で人びとの無知を暴いた
人びとが思った以上に賢くないことに気がついたソクラテスは、『問答法』を用いることでその無知を暴こうと試みます。
問答法とは、相手が最初に主張した事に対し質問と回答を繰り返すことで、主張の矛盾点を暴く方法です。相手の意見に対して、「そもそも」「それを言うなら…」と次々と質問を重ねていく内に、次第に相手の理論は破綻していき、主張の整合性が失われます。
そんな矛盾を見つけ、最終的に「やはりあなたは何も分かっていないじゃないか」と論破するこの手法は、ソクラテス式問答法、或いは産婆術とも言われています。
「無知の知」とは、自分の無知を自覚すること
無知の知とは、自身の無知を自覚し、自分の正しさだけを盲目に信じ込まないことです。ソクラテスは他の賢者達と同様に賢くはありませんでしたが、彼だけが自分の無知や無学を自覚していたので、その点で少しだけ秀でていたのです。
ソクラテスは神に厚い信仰心を抱いており、人間は神の前では無学であると考えていたため「無知の知」の思想に繋がったと言われています。
ソクラテスの誕生から思想形成まで
アテナイで生まれる
ソクラテス先生は、ギリシャのアテネで生まれたんですね!
そうじゃ。当時は、ギリシアのアテナイと呼ばれておった!
紀元前469年前、ソクラテスは古代ギリシアのアテナイに生まれました。石工の父と助産師の母との間に生まれたソクラテスは、後述のペロポネソス戦争で従軍するまでの史実は明らかになっていません。
紀元前470年頃というと日本では弥生時代で、稲作に精を出している頃です。
重装歩兵として従軍する
先生は戦争に従軍されていたんですね!
そうじゃ。ペロポネソス戦争は30年近く続いたんじゃが、わしはデリオンの戦いに参加しておってのとても過酷なものじゃった…
その後ソクラテスは、ポテイダイアの戦いやデリオンの戦い、ペロポネソス戦争において、重装歩兵として従軍します。
ペロポネソス戦争は、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した大戦争で、当時のギリシア全域を戦火に巻き込みました。この混乱は後に、ソクラテスの運命を決める大きな要素の1つになります。
デルポイの神託を受ける
デルポイの神託って何ですか?
弟子がデルポイの信託所に行ったら、神に仕える存在である巫女が「ソクラテス以上に賢い者はいない」と言われたそうでのう。
それがデルポイの神託と呼ばれているそうじゃ。
ソクラテスが37歳の頃、弟子の1人であるカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの信託所で、ソクラテス以上に賢い者はいるかどうか尋ねます。すると神託所の巫女は、「ソクラテス以上に賢い者はいない」と答えます。
この出来事は、デルポイの神託と言われています。
神託の正しさを検証する
ソクラテスは、その神託を信じることができませんでした。なぜなら、彼は自分自身を賢いとは思ったことがなかったからです。
ソクラテスは神に対して厚い信仰心を持っており、己の無知を自覚しながらも、「神が嘘を言うはずがない」という観念のうちに葛藤してしまいます。
その後、ソクラテスはアポロン神の言うことが正しくないことを証明するために、世間で賢いと言われている人びとを探し訪ねて回りました。
その過程でソクラテスは、賢人と呼ばれる政治家・詩人・手職人らは、彼らは自らを知恵のある者だと思っているが、実際はそうでないことに気がつきます。
裁判にかけられるまで
『知恵のある者』が、実はそうではなかったことを知ったソクラテスは、アポロン神の神託を受け入れました。
ソクラテスは、その後もこの活動に熱中し、賢者として良い評判を集める一方で、彼に無知を指摘された人や関係者からは敵視されるようになります。
問答法を用いて人びとと議論を重ねた
なぜ、先生はこのように問答法を行ったのですか?
これにはきっかけがあってのう。デルポイの神託でわしより賢い者はいないと巫女様が仰ってくれたじゃろ。
そんな訳はないと思ってわしより賢い人を探しに行くことにしたんじゃ!わしより賢い者であればわしの質問には全て答えられるはずじゃから。
問答を繰り返した事で、先生より賢い人は見つける事はできたんですか?
それが、見つける事はできなかったんじゃ。賢者と呼ばれる人物も結局は賢い事を装っているに過ぎず何も知らなかったんじゃ。
わしはここで神が巫女を通して伝えた事を認めたんじゃ。わしは賢者と呼ばれる者達と同様に何も知らん。しかし、わしは”何も知らない事”だけは知っておる分、彼らより賢い事が分かったんじゃ。
今、何も知らないという事を知っているという事を”無知の知”と言うそうじゃな!
ソクラテスが人々と議論するときは、冒頭でも説明した『問答法』と呼ばれる手法を用いました。
ソクラテスの質問に対して回答を重ねていくと、相手の主張の中に矛盾点が見つかります。こうしてソクラテスは対峙した賢者たちを『無知の知』へと至らしめました。
ソクラテスは報酬を得て働くソフィスト(徳を教える弁論家・教育家のこと)たちとは違い、無報酬で極貧生活に身を任せ、家庭のことは気にもとめず活動していたと言われています。
多くの人に憎まれた生涯
ソクラテスの活動は、彼が賢いという評判を広めると共に、主張の矛盾と己の無知を指摘された知識人から憎まれ、多くの誹謗中傷を浴びることになりました。
彼は敵を作るだけには留まらず、富裕市民の若者に追い回されたり、ソクラテスの手法を模倣する者も現れたりします。ソクラテス模倣者から被害を受けた者もまた、ソクラテスを恨むようになりました。
裁判にかけられ死刑となる
問答法で無知を晒された者たちが反感を持っている事は分かっていたんですよね?
分かっていたとも。しかし、わしは問答を繰り返して行く事で更に気づいたんじゃ!
神はわしの事を賢い答えたのは一例であって、神の真意は無知を指摘し知恵が無価値である事を広める使命を与えたのではないかという事に。
わしは神の真意に沿って、無知を指摘したんじゃ。わしにとっては反感を持たれたとしても使命を全うする事の方が大事じゃった。
ソクラテスの罪状
多方面に敵を作りすぎてしまったソクラテスは最終的に、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という理由で、公開裁判にかけられます。
原告は詩人のメレトスで、政治家のアニュトスがそれを後押しします。ソクラテスに与えられた罪状は神を冒涜した罪、いわゆる『涜神罪』でした。
アテナイに住む500人あまりの人々は、ソクラテスは紛うことなく死刑に値すると言い断罪します。
ソクラテスの弁明とは、ソクラテスが裁判にかけられてから死刑となり無くなるまでが描かれた作品です。
当時は、500人の裁判員+1人の裁判官で501人の多数決によって有罪、無罪が決まる形式でした。弁護人が弁護するのではなく、弁明と言って自身で無罪を主張しました。この作品では、裁判の弁明の様子が主な内容となっています。
ソクラテスは裁判中、決して自説を曲げることは無く、原告のメレトスや、後押ししたアニュトスに対して問答を繰り広げました。そして、自身が不当な罪で裁かれており、本当に裁かれるべきは原告だと声高々に言い放ちます。
ソクラテスは、自身が罪を犯してはいないにも関わらず裁かれる事になったとしても正しい事をしているので悪い事ではない。しかし、罪を犯してない人を裁く側に票を入れるのは悪い事に当たるのではないかと裁判員を試すような言動も加え放ちます。
結局全く媚びなかったソクラテスは、有罪となります。有罪になっても全く媚びず自身の説を貫き主張し続けたソクラテスは陪審員らの反感を招き、2度目の刑を決める投票では「死刑」となってしまいます。
『単に生きるのではなく、善く生きる』
弟子のプラトンやクリトンは、執行までの猶予の間に逃亡や亡命を勧めました。また、ソクラテスを捕らえていた牢獄の番人の中にも、彼に同情する者が多かったためか、逃亡できるよう鉄格子の鍵はかけられていなかったそうです。
それでもソクラテスは、死を恐れ『持ち場』を放棄し、どこか遠い場所へ逃げることを良しとせず、刑に処せられる道を選んだとされています。そして紀元前399年、70歳でソクラテスはドクニンジンの杯をあおり、死に臨みました。
ソクラテスを処刑に追いやった社会背景
私も政治を志していましたが、先生を罰した当時の政治には疑問を感じました…
そうじゃ、お主は政治を志しておったからのう。
しかし、当時は戦争によって民衆は不安を抱えていたからのう。戦争のきっかけを作ったとして告訴されたわしは民衆から危険視される存在じゃったのだろう。
更にわしは、弁明で民衆に味方してもらう事よりも言うべき事を言っただけだからのう。民主政治の裁判によって裁かれたのはある主仕方がないとも言えるんじゃ。
ソクラテスが40歳の頃から、古代ギリシアの情勢は急変しました。紀元前431年から、約30年間、ペロポネソス戦争が起こり、ソクラテスの住むアテナイの人びとは行き先の見えない不安を抱えることになります。
人々に憂いをもたらしたペロポネソス戦争は結局、ソクラテスの祖国の敗北に終わり、アテナイには独立政権が樹立されます。
戦時中や戦後に起きた人びとや社会の混乱は、ソクラテス個人に対する危険意識や反感に繋がり、1人の思想家に過ぎないはずの彼を死に追いやったとも見てとれます。
民衆はソクラテスを処刑したことを後悔した
ソクラテスが亡くなったあと、アテナイの市民はこの不当な裁判を行ってしまったことを後悔しました。そのため市民は、ソクラテスを告訴した人々を裁判抜きで処刑したと今日では伝えられています。
生涯著作を遺さなかったソクラテス
なぜソクラテスは著作を遺さなかったのか
先生ほどの考えを持ったお方がなぜ著書を残さなかったんですか?
感情が伝わらないので文字は好きではなくてのう〜
後、知識を正しく伝えるには相手の目線にあった言葉選びが大事じゃ。一方的に考えを述べるより相手を見て対話する方が合っていたんじゃ!
哲学者や思想家は己の著書を遺すことが定石ですが、ソクラテスは一冊たりとも書きませんでした。というのも、ソクラテスは書き留められた言葉を「死んだ言葉」とし、それらは記憶を破壊するものだと考えていました。
書記言語は、話し言葉と違い、音や旋律、リズムとイントネーションを失っており読者(聞き手)の反論や不理解を受け付けないので、己の理念に反していたそうです。
そうして、ソクラテスは、知識を正しく伝えるためには、相手の理解に合わせた言葉を選び思考を促すことで、誤解を避けながら対話することが最も重要だという考えのもとで、著作を行うことを放棄したとされています。
ソクラテスの思想を記した弟子たち
ただ、先生の考えは後世にも残すべきだと思ったので私は著書にしておきました!私の兄弟子にあたる方々も先生の著書は書かれてるみたいですね!
まあわしは残さなかったが、お主がこうして現代まで伝えてくれたおかげで今日はこうして対話する事ができた。
お主には感謝じゃな!
ソクラテスは己の思想や言葉を自ら書き記すことはありませんでした。そのため、今日私たちに伝わるこの哲学者のエピソードは、彼の多くの弟子たちの著作を頼りにしています。
ソクラテスの裁判についての記述『ソクラテスの弁明』を執筆したプラトンや、デルポイの神託を聞いたカイレフォンを筆頭に、クリトンやアリスティッポス、クセノポンなど数多くの弟子がいたとされています。
しかし、実際のところ、ソクラテスは貧富の差で人を区別せず、あらゆる人々の質問に答えてきただけで、誰にも授業を授けたこともなければ、誰の師匠になったこともないと考えていたそうです。
プラトンによって「我が師ソクラテスは世界で一番醜い。しかし、一番賢い」と記されているそうです。
ソクラテス – まとめ
いかがでしたでしょうか。ソクラテスとは一言で表すと、「哲学という概念を作り出し人々の生き方について考え説いた」人物です。現在で言う倫理学的な観点を初めて持ち出した人物です。
哲学の研究も書斎にこもって本を漁るのではなく、実際に人と対話する問答法を用いて実世界に答えを探しました。結局、その答えを持つ人物は現れる事はありませんでした。
結局ソクラテスは、問答法によって無知を暴かれた人々の反感によって裁判にかけられ死刑となり死亡しますが、死ぬまで「善く生きる」という姿勢を崩す事はありませんでした。
この「善く生きる」、とても難しい事です。誰もが間違っていると思いながらもやってしまう事はあると思います。しかし、それでも良いと思っています。大事であるのは少しでも「善く生きる」ために尽くす事なのではないでしょうか。