ゴットフリート・ライプニッツ、名前に馴染みが無くても微分積分を確立させたと聞くと殆どの方が凄い人という事ぐらいは分かるはずです。
天才数学者の理論を理解する事は難しいですが、ライプニッツとはどんな人物であり、どのような思想を持っていた人物であるかはこの記事で紹介しています。
是非ご覧ください。
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツとは
万学の天才
ライプニッツは数学者として印象が強いかもしれませんが、実は哲学者としても著書を残しています。しかし、ライプニッツが実績を残したのはそれだけではありません。
法律学、自然科学、神学、歴史にも精通し、外交官として活躍したこともありました。IQは182~205もあったそうで、多才だったライプニッツは、母国ドイツの記念切手になったこともありました。
微分積分学の確立
ライプニッツは数学者として有名で、微分・積分を確立したことで知られています。微分・積分は、大砲の弾の軌道を計算したり、スペースシャトルが宇宙ステーションと結合する際に用いられている、大変重要な計算方法です。
高校の教科書に出てくる、微分・積分の記号はライプニッツが作りました。
生誕から大学まで
天才の生誕
ライプニッツは1646年、ドイツ・ザクセン地方のライプツィヒに生まれました。父はライプツィヒ大学の哲学・倫理学の教授、母はライプツィヒ大学教授の娘で、下には妹がいました。
学者の家系でしたが、貴族ではなく市民階級で、6歳のころ父を亡くしており、家庭は裕福ではありませんでした。
ニコライ学院へ
ライプニッツは7歳で、ニコライ学院に入学しました。8歳にして独学でラテン語を習得するという天才ぶりだったようです。
ラテン語で書かれた難しい歴史家の書や、ギリシャ人やローマ人の著作をも読破していたそうです。ライプニッツは、父の書庫にあるキリスト教の教父が書いた著作から、独学で神学も学んでいました。
大学時代
ライプニッツは、14歳の若さでライプツィヒ大学へ入学、数学や哲学を学びました。その後、4か月間イェーナ大学に籍を置き法学や史学を学びます。
ライプツィヒ大学に戻り、哲学修士になったライプニッツは、今度は本格的に法律の勉強をしようと考えました。
ライプニッツは、大学に法学の博士論文を提出しますが、あまりの天才ぶりから嫉妬され、学位はもっと年長者に与えるべきだとして、学位を取得できませんでした。
仕方なくライプニッツは、アルトドルフ大学に論文を提出し、法学博士の学位を取得しました。また、ライプニッツは大学時代に母を病気で亡くします。その後は学費の工面に苦労し、妹から借金をすることもあったようです。
微分・積分へとつながるパリでの生活
マインツ大司教に仕官
卒業したライプニッツは、法学を生かし、マインツ大司教に仕えます。マインツに住んでいるころから、ライプニッツは、様々な人と書簡を交わし始めました。
ライプニッツは大変社交的な性格だったようで、生涯文通を続けました。その相手は専門家から平民まで1000人を越えたそうです。
外交官として
1672年、ライプニッツは、マインツ大司教の命で、外交官として、フランス・パリに向かいました。当時のフランスのルイ16世は、オランダを侵攻しようとしていました。
それは後に、ドイツを脅かすことになりうるとして、ライプニッツはルイ16世にエジプト遠征を提案しようと考えたのです。しかし、一年後、マインツ大司教が死去し、パリで職を失うことになってしましました。
無職になってしまったライプニッツでしたが、パリには多くの専門家や学士がおり、交流を深めていました。たくさんの刺激を受け、学問への探求心は増すばかりで、そのまま、パリに留まることを選びました。
計算機の制作
このころ、ライプニッツは計算機を制作します。計算機はすでに発明されていましたが、加減しかできない初歩的なもので、ライプニッツの制作したものは加減乗除ができる優れものでした。
これに興味を持ったフランスの宰相が3台も購入したという記録が残っています。この計算機に用いられたのは数学の二進法です。
二進法は0か1かしかない数字の数え方で、私達の生活に欠かせないコンピューターのプログラミング言語のもとになっています。
微分・積分を発表
1675年、ライプニッツは微分・積分を発表します。実は、微分・積分は、少し前にニュートンも発見していました。二人は全く別の方法で、この計算式にたどり着きました。
当時は黙って互いを認め合い、このことに言及することはありませんでした。ところが、この問題は晩年、周囲をも巻き込み大論争となってしまいます。
宮廷に仕えながら書いていたモナドロジー
鉱山改良の大失敗
1676年、ライプニッツは、その才能をハノーファー宮廷から見いだされ、顧問官兼図書館長として仕えます。早速命じられたのが、領内のハルツ鉱山の改良でした。
ライプニッツは、坑道から水を排出するポンプに、風車を利用しようと考えました。しかし、7年の年月をかけたにも関わらずうまくいかず、事業は打ち切りになり、大失敗となってしまいました。
「弁神論」
ライプニッツは数々の分野で功績を残していますが、生きているうちに本として出版したのは「弁神論」だけでした。このなかで、ライプニッツは、神がいるのになぜ、この世に悪があるのかについて記しています。
この問いについては、幾度も議論がなされており、この本は多くの識者が手に取ったそうです。ライプニッツは、一見悪に見える事柄も、神にとっては善であるに違いないと述べています。
このように神を弁護するような考え方を弁神論と呼びました。
モナドと予定調和
ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素はモナドから成るとしてモナド(単子)論を立てました。そのモナドは、神による予定調和で動いているとしています。
この論はライプニッツの哲学を知りたいという知人に向け書いたもので、死後「モナドロジー」として出版されました。
モナドとは
モナドとは、現実に存在するものを分析していくと、形のない精神のような性質を持ったものがあるとしました。
モナドは一つとして同じものはなく、互いに影響することはない独立したものであるといいます。このモナドの集合体が現象です。
神と予定調和
- 創造可能な宇宙を無限に認識している(パラレルワールド)
- その中で最善の宇宙を選択できる
- その宇宙を創造している
ライプニッツは神に対して上記のように見解を持っていました。神は、予め設定した通りに、モナドを調和させ、現象を生み出していると考え、これを予定調和と呼びました。
ニュートンと泥仕合、追いつけない天才
ニュートンとの対立
1695年になって、ニュートンは微分・積分の功績がライプニッツのものという見方になっているのを知りました。大変悔しがるニュートンを見て、ニュートンの支持者は「ライプニッツがアイデアを盗んだ」と罵り出してしまいました。
ライプニッツも「ニュートンの方が先に盗んだ」と猛反撃し、支持者同士の争いは、やがて国家をあげての大論争に発展してしまいます。
孤独な晩年
晩年、ライプニッツを高く評価していた人々は亡くなり、理解者を失くしてしまいます。さらに、ライプニッツはニュートンとの争いで、ニュートンの母国であったイギリスで評判が悪くなってしまいました。
当時の君主は、イギリスの王になりますが、お供する気でいたライプニッツを置き去りにします。学問に興味のなかった君主は、ライプニッツを冷遇し、たちまち周囲の人々は離れていきました。
最後は70歳で自室で亡くなったとされていますが、葬儀には友人が一人現れただけで、牧師さえ呼んでもらえなかったそうです。
追いつけない天才
ライプニッツが残した本は「弁神論」だけで、死後、交わした書簡が研究され多くの功績が世に出ました。しかし、その量は膨大で、まだすべて研究されていないそうです。
私達は、未だに天才ライプニッツに追いつけず、生きた間に残した宿題を、300年経っても終わらせることができないのです。