近年では『嫌われる勇気』というタイトルの本が話題になっています。そのため心理学専攻の方でなくても、知らず知らずの内に、日々の暮らしの中でアドラーの名を耳にしているかもしれません。

アルフレッド・アドラーはどのような経緯で『アドラー心理学』に至ったのか、また、彼はどのような人生を送ったのかを下記で詳しく紹介します。

アルフレッド・アドラーとは

アルフレッド・アドラー – 参照:Wikipedia

アルフレッド・アドラーとは一言で言うと、これからの人生をよりよくするための心理学と言われている、いわゆる『アドラー心理学』を提唱した心理学者・精神科医です。

心理学三大巨匠の1人

この記事で紹介するアルフレッド・アドラーは、フロイトやユングと並び心理学の三大巨匠とされています。この3人は19世紀の同時期を生きており、かつては同じ研究グループに属していたこともあります。

こうして交流のあった3人ですが、心理学に関する考え方は三者三様だったそうです。特にアドラーは、ユングやフロイトとは全く違う考え方をしていました。

『共同体感覚』を重要視した

アドラーは研究を進める内に、『共同体感覚』と呼ばれる事象を重要視するようになりました。

この共同体(=他者)は、自身の友人や家族などの閉鎖的な小グループを指すだけでなく、究極的に言ってしまえば東京都民や日本人、といった大規模な繋がりまでを網羅する場合もあります。

『共同体感覚』は『他者への関心』と言い換えられます。そのことから、大小さまざまなコミュニティに属している『意識』こそが、共同体感覚と言えます。

アルフレッド・アドラーの幼少期

ウィーン市街の遠景 – 参照:Wikipedia

1870年オーストリアに生まれる

アルフレッド・アドラーは1870年にオーストリアで、ユダヤ人の両親のもとに生まれました。家庭は中流階級で、6人兄弟だったとされています。

アドラーの家庭環境や幼少期の経験は、後に彼の価値観やキャリアに繋がっていきました。というのも、アドラーは幼少期に弟をジフテリアで亡くしてしまい、本人も肺炎やくる病などのさまざまな病気に苦しんだ経験があるのです。

アドラーが医師をめざしウィーン大学へ入学したのは、そのような過去の苦しい経験が背景にありました。

社交場に興味を持った学生時代

アドラーは比較的早い段階から哲学や心理学に興味を持っていました。アドラーは日頃から、人々の助けになることについて思考を巡らせていたそうです。

中学生の頃は数学の授業を落第するなど、あまり勉学が得意だったわけではないそうですが、この頃から既に社会との関わり方や社交場に興味を持っていました。

医師を目指した大学時代

ウィーン大学 – 参照:Wikipedia

ウィーン大学に入学

アドラーは自分が病弱だった過去や弟を病気で亡くした経験から、いつしか医者を志すようになりました。1888年にはウィーン大学で医学について勉強し、7年後の1895年に無事卒業しています。

眼科医として勤務する

大学卒業後のアドラーは、自身と同じユダヤ人や中下流階級の労働者が多く住まう場所で眼科医として診療所を開きました。のちに彼は、内科や神経学、精神医学に対しても興味の手を伸ばしました。

アドラーの診療所付近には遊園地があり、空中ブランコ乗りや大道芸人の人たちのように、自身の身体能力を売って稼ぐ人が多くいたそうです。その中でアドラーは、病弱などの肉体的なハンディキャップを乗り越え、欠点と言われた己の特徴を長所に仕立てて活躍する人々を多く見かけました。

『器官的劣等性』について考える

上記のような人々や、自身の持つハンディキャップ(くる病)を通して、アドラーはやがて『器官的劣等性』と名付ける思考に至ります。

器官的劣等性とは、色弱・色盲、難聴、低身長、四肢不自由などのように、身体機能などが客観的に劣っていることそのものを指します。

これらの器官的劣等性は、その人の人生のあらゆるポイントで何らかの大きな決断を迫ることがあり、そのような経験は当事者の人格形成に多大な影響を及ぼす可能性があると言われています。

精神分析学との出会い

フロイト(1922年) – 参照:Wikipedia

フロイトの研究グループへ

アドラーは『仕立て業のための健康手帳』の著作を出すなど、医者として精力的に働いていました。

彼が幼少期から感じていた社会と関わりへの興味や、他者の助けになりたい気持ちはこの頃も変わりません。そうして医者として働く内に、アドラーは精神分析学と、すなわち、かのジークムント・フロイトと出会います。

グループ出身に所属した三大巨匠

アドラーはユングと共にフロイトの研究グループに属しました。ユングはフロイトの弟子でしたが、アドラーは自身も主張するように単なる共同研究者的な立ち位置でした。

1907年には、医師として働く内に得たアイディアを、より深く考察してまとめた著書『器官劣等性の研究』を出版しました。

フロイトとの決別

アドラーは、フロイトの説いた『無意識』の言説を受け継ぎつつも、彼とは異なる考え方をしていました。徐々にフロイトとの意見の違いが明らかになり、最終的には完全に袂を分かちます。

アドラーは己の研究仲間7人とともにフロイトの研究グループを離れ、自由精神分析協会を設立します。1912年には『神経質について』を上梓し、自由精神分析協会の名前を『個人心理学会』に改めました。

この頃には、当初務めていた診療所を辞め、精神科医としての立ち位置に落ち着いていたようです。

第一次世界大戦で軍医として活躍

その後アドラーは、第一次世界大戦で徴兵され、軍医として活躍しました。そのとき彼は、戦争により多くの人々が、敵も味方も関係なく命を摘まれてしまう現実を目の当たりにしました。

毎日多くの負傷者を治療・観察する中で、彼は『共同体感覚』こそが、何よりも一番大切であることに気がつきます。

同体感覚の思想に至る

第一次世界大戦後、軍医としての働きを終えたアドラーは、『個人心理学』の根底にあるものは、『共同体感覚』よりほかならないと説き、一層研究に熱中しました。

『個人心理学』は『アドラー心理学』と同じ心理学を指していると考えて良いでしょう。個人心理学が正式名称ですが、日本国内では後者の呼び名が浸透しています。

また、『共同体感覚』と言うと少し意味が分かりにくいですが、英語では“Social Interest”と言い、直訳すると『社会的な興味』になります。社会的な興味、あるいは他者への関心と言い換えるとイメージしやすいと思います。

アドラーが唱える個人心理学

アドラーの提唱する個人心理学では、主体性・目的論・全体論・社会統合論・仮想論の合計5つの理論を元に、来談者と対話し、カウンセリングを通して彼らの内に共同体感覚を育みます。

アドラーが言うことには、共同体感覚とは、人間1人1人に初めから備わっている潜在的な機能ですが、意識して育成する必要があるとのことです。

終戦後はウィーンで教鞭をとった

第一次世界大戦が終了してからは児童相談所の設立を始め、心理学・医学・教育・ソーシャルワークなどの幅広い活動に尽力したため、アドラーは子どもたちの精神的な健康を熱心に考える、素晴らしい心理学者として知られるようになりました。

アドラーは精神医学や心理学についてよく知らない人々に対しても積極的に講演を行っています。その合間には患者の診察や、著作活動や友人・知人との議論なども並行して取り組みました。

彼の功績は留まるところを知らず、後にウィーン教育研究所で教授に任命されました。

亡くなる日まで講演を続けた

講演の合間に怪我をした少女の手に包帯を巻くアドラー – 参照:Wikipedia

アメリカへ移住を決意

アドラーは、故郷・オーストリアが世界大恐慌の影響で不安定になりオーストロファシズム政権が樹立されると、その翌年にアメリカへ移住しました。

アメリカでは活動拠点をニュースクール大学としていましたが、それとは別でロングアイランド医科大学の医学心理学招聘教授に任命されています。その後、自作の著書『人生の意味の心理学』を出版しました。

渡米後もヨーロッパで講演

アドラーはアメリカに移住後も、ヨーロッパとアメリカの両方を飛び回り、連日講習を開いていました。

1926年に初めてアメリカで講演を行って以来大成功を収めた彼は、1年の半分をそれぞれアメリカとヨーロッパで過ごしていたそうです。

スコットランドでの講演を前に

アドラーが67歳の時、講演旅行のためにスコットランドを訪れ、彼は突然屋外で意識を失ってしまいます。死因はかねてより患っていた心臓病の発作だと言われており、救急車の中で息を引き取りました。

アドラー没後の評価

彼亡き後、今日に至るまで『アドラー心理学』は、多くの研究者に議論され、多くの悩める人々を魅了してきました。『嫌われる勇気』と名付けられたアドラー心理学の入門書は、日本国内だけで200万部出版されるなど、今世紀最大のベストセラー本になりました。

アドラー心理学は、フロイトやユングと違い、これからの人生をより快適に生きるための自己啓発を手助けするような側面が強いため、悩める現代人に再評価されているのかもしれません。