ミシェル・フーコー、哲学者の中ではとても最近と言えますが中々名前を聴く機会は多くない人物であると言えます。

フーコーは「エピステーメー」という言葉を作り出しており、彼の思想を語るには非常に重要なキーワードとなっています。

少し難しそうに感じるかもしれませんが、フーコーの思想は戦争や自身が同性愛者だった事で悩んで人間の思考について考えたものです。是非記事を通してフーコーという人物に触れいていきましょう。

ミシェル・フーコーとは

ミシェル・フーコー – 参照:Wikipedia

ミシェル・フーコーは、20世紀のフランスの哲学者です。戦争や、自分の同性愛的な傾向に苦悩しつつ、哲学を研究し幅広い分野での著作を残しました。

近代社会の見えない構造を再定義

フーコーは、近代社会を支配している見えない構造(知の枠組み)を取り出し、歴史的に考察しました。そして、人の思考は古代から連続して進歩してきたのではなく、各時代に特有なものと考えました。

このような、各時代でまったく異なる人々の思考のことを「エピステーメー」と呼び、ヨーロッパの近代思想を再定義しました。

「人間の終焉」を主張

人々の思考は各時代のエピステーメーに支配されています。そして、「人間」という概念も、つい最近の19世紀以降に支配的になったエピステーメーに過ぎないと主張したのです。

「人間」が社会の構造に縛られていることが明らかになっているがゆえに、近代の想定する、自分の意思で主体的に行動する「人間」という概念は妄想に過ぎず、人間の終焉は近いだろう。

フーコーはそう言って、ヨーロッパの人間中心主義を批判しました。

同性愛者として

フーコーは同性愛者であり、自分のその傾向に深く悩み何度か自殺未遂を起こします。また、自分が同性愛者であることは公には隠し続けました。

現代でも同性愛者に対する偏見や差別はまだまだ残っていますが、世界には同性婚を認める国も多く存在しています。しかし、フーコーが生きた時代ではまだ、同性愛は社会的なタブーとされていました。

フーコーの幼少期

ポワティエ – 参照:Wikipedia

出生と幼少期

お主はフランスの生まれじゃな!どのような幼少期を過ごしたのじゃ?

はい!父が医者だった事もあり幼少期から私にも医者になる事を求められていて猛烈に反発していた事を覚えています。

フーコーは、1926年にフランスのポワティエで医師の一家に生まれました。外科医だった父は、長男であるフーコーに医学部に行くことを望みましたが、彼は文学部に進むことになります。

それがきっかけで父親と対立することになります。フーコーの家系の男子には「ポール」という名前が与えられており、正式名称は「ポール=ミシェル・フーコー」でしたが父親と対立した事で「ポール」を名前から外しミシェルフーコーと名乗るようになります。

第二次世界大戦、戦乱の中で

1940年、ドイツ軍がフランスに攻撃を開始します。当時14歳のフーコーは兄弟と共に疎開することになりました彼はドイツ軍のパリ占領や、連合軍によるパリ解放を目の当たりにしました。

自分の祖国が他国に支配されるという衝撃的な出来事は、その後の彼の思想に影響を与えることになります。

終戦、高等師範学校に入学

1945年、フーコーはフランスにおける最高レベルの学校である高等師範学校の試験を受けますが、不合格。しかし翌年には合格して、モーリス・メルロ=ポンティの指導のもと哲学を学びました。

不安定になるも執筆活動をはじめる

リール第1大学 – 参照:Wikipedia

同性愛者、エリート一家としての苦悩

フランスの高等師範学校は優秀なエリート達が集まるというがお主の学校生活はどうたったんじゃ?

最初は最悪で、自殺未遂もした程でした…

私は、同性愛者だった事もあるのですが、差別され更にはエリート集団の考えについていけずに悩む事が多くなりました。

フーコーは高等師範学校に入学しますが、そこでは彼が同性愛的な傾向を持つことが知られていました。そのことが原因で差別を受けることになり、彼は情緒不安定に陥ります。

自殺未遂をくりかえす

前述したような差別や、エリート意識の高い周囲との関係に悩んだり、大学教員資格試験に失敗したりといったことが原因で、フーコーは自殺未遂をくりかえすことになります。

人生における目標を見失い、フランス共産党に入党したりしていますが、そこでも心の平安は得られません。しかし、そこで高等師範学校の教師から「仕事によって病気を乗り越えるべき」と助言を得たことで精神的混乱をなんとか乗り越えます。

大学で教鞭を執る

苦悩続きの人生であるように感じられるが大学教員試験に合格し前に進み出したんじゃな!

はい、高等師範学校のアルチュール先生が私に向き合ってくれたおかげで前を向く事ができ大学教員の試験にも合格する事ができました。

大学で働く中で執筆活動も進めていきました。

そして、フーコーは大学教員資格試験に合格し、リール大学の助手として働き始めます。フーコーはリール大学で働いた後は、スウェーデンのウプサラ大学でフランス語教師として勤めます。

その際に、ウプサラ大学図書館に通いながら、自らの博士論文の執筆を始めます。その後、ポーランド、ドイツの大学で教鞭を執り、博士論文を完成させます。

フランスへ、『狂気の歴史』を出版

ほう、この『狂気の歴史』という著作がお主の処女作か。どのような内容だったんじゃ?

この著作は、狂気の歴史について執筆してあります。皆さん現代の方が聞くと「狂気」というワードは、なんとなく悪い印象を与える言葉だと思います。

しかし、この「狂気」という言葉は、中世の頃などは悪い印象の言葉ではなく、寧ろ真理に近い言葉として崇められていたのです。

なぜ、この「狂気」という言葉が時代を通して印象を変えていったのか。そのような事を調べていきまとめたのがこの著作となります。

1961年、フーコーはフランスに帰国し、自らの博士論文である『狂気の歴史』を出版しました。

「狂気」と「理性」がまだ区別されていなかった中世やルネサンス期(16世紀以前)のヨーロッパでは、「狂気」に対して社会は寛容で、常人には計り知れない真理に近い考え方として受け入れられていました。

神聖なものとして、共存していたのです。しかし、近世(17世紀以降)になると、「狂気」は非理性的な存在として、精神病や犯罪者として排除されてきました。近世以降にヨーロッパが理性化し始めたからです。

労働力になるか、ならないかによって、理性的な人々と非理性的な人々というふうな分類がなされていきました。

『言葉と物』がベストセラーに

お主の執筆活動は順調に高い評価を得ていったそうじゃのう。『言葉と物』はベストセラーだとか。

どんな内容だったか簡単に説明してくれるかのう。

はい、この著書はそれまで主流だった人間中心主義、つまりこの世の環境などは人間のために存在しているという考え方を否定する事に始まります。

私の研究では、人間は自由の意思を持っているように見えて実は構造的な物によって動かされていると導き出しました。これを構造主義と呼んでいます。

1966年、フーコーは『言葉と物』を出版します。『言葉と物』はベストセラーとなり、彼は注目を集めます。彼はこの著作の中で、時代ごとに異なる知の枠組みである「エピステーメー」を考察し、人間中心主義を批判しました。

フーコーは、西洋社会のエピステーメーを、16世紀以前、17〜18世紀、19世紀以降と区別して考察しました。

16世紀以前のエピステーメー

まず、16世紀以前のエピステーメーの特徴は、「類似」です。

世界の事物は、類似関係によって繋がっているのだと考え、あらゆるものは類似性にもとづいて秩序立っていると考えます。そのような世界では、動植物の存在の意味を解釈するための伝説や自然の「暗号」を読み解くことに関心が置かれます。

17〜18世紀のエピステーメー

17〜18世紀におけるエピステーメーでは、比較して区別や分類することが重要となります。

世界とは可視化できるものだと考え、動植物を見た目によって比較し、グルーブ分けして行くことが大事だとされます。

19世紀以降のエピステーメー

19世紀以降は、生き物の期間の機能に関心が移ります。その結果、「生命」や「人間」という考え方が生まれ、そこから「人間とは何か」という研究が盛んに行われることになります。

フーコーは、「人間」の概念も、他の時代と同じような一時代のエピステーメーに過ぎず、普遍的なものではないと主張します。「人間」は近代の産物でしかないのです。

フーコーの晩年

コレージュ・ド・フランス正面玄関 – 参照:Wikipedia

コレージュ・ド・フランスの教授に

1970年、フーコーはコレージュ・ド・フランスの教授に就任します。フーコーはここで「真理への勇気」という名の講義を行っています。

コレージュ・ド・フランスは、1530年に設立されたフランスにおける学問、教育の頂点に位置する国立の高等教育機関で、メルロ=ポンティやベルクソン、レヴィ=ストロースなどの著名な学者たちも教授に就任しています。

パノプティコンを権力論として読み解く

1975年にフーコーは『監獄の誕生』を出版しています。ここでは、功利主義の祖として知られるベンサムが考案した「パノプティコン」という監獄モデルを用いた、近代の権力技術の説明がなされています。

パノプティコンとは、ベンサムが理想的な刑務所として設計した一望監視システムのことです。監視塔を中央に、それを囲むように独房が設置されています。監視塔からは各囚人のようすを見ることができますが、囚人からは監視等に人がいるかは見えません。これによって囚人は、監視者がいてもいなくても常に見られていることを意識して、自動的に更生していくと考えました。

フーコーは民主国家をパノプティコンに例えます。常に監視されているという意識から、自ら好んで規律に従うようになっていくことをパノプティコン効果と呼び、パノプティコン効果によって人は社会の矛盾に疑問を持たなくなっていくと指摘します。そして常識から外れた人を狂人として排除していくのだ、と主張しました。

AIDSでの死去

高名な学術機関の教授に就任し、名声も高かったフーコーでしたが、1984年、57歳の若さにして突然この世を去ってしまいます。死因は、当時まだ発見されたばかりであったAIDSでした。