ヒトラーは第二次世界大戦期におけるドイツの政治家です。彼はおそらく世界で最もよく知られた独裁者でしょう。
ヒトラーについては残虐で非道な政治家として語られることが多いのですが、その人物像についてはあまり知られていないのではないでしょうか。ヒトラーの生い立ちから思想までをわかりやすく解説します。
アドルフ・ヒトラーとは
ヒトラーとナチズム
ヒトラーと並んで語られる言葉にナチズムがあります。ナチズムとは、国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)の政治思想・運動を指す言葉です。
ファシズムの一種で、指導者による独裁政治の必要性を説き、ドイツ民族こそが世界を支配する民族であるという主張しています。この思想を掲げることでナチ党はドイツを独裁し、他国への侵略戦争を正当化しました。
ユダヤ民族を大量虐殺-反ユダヤ主義と「ホロコースト」
ホロコーストとは、ナチス・ドイツによって行われた絶滅政策・大量虐殺のことです。なぜナチスはユダヤを迫害したのでしょうか。18世紀ごろまで、ユダヤ人はヨーロッパにおいてあまり良い民族だとは思われていませんでした。
キリストの磔刑に関わったことから迫害をうけていたユダヤ人たちは、生産職につくことが難しく,多くのユダヤ人たちが金貸しなどの金融業を生業にしていました。
そのイメージからユダヤ人はしばしば嫌悪の対象になり阻害され、ゲットーと呼ばれる場所に隔離されました。18世紀以降、ユダヤ人たちの地位は向上しますが、ユダヤ人を嫌う人間は依然として存在し、反セム主義と呼ばれました。
ナチスもその系統を組んだ政党で、ユダヤ民族をドイツ民族の最大の障害として定めていたので、ナチ党の独裁下ではユダヤ民族は厳しく迫害されたのです。
ナチスはゲットーにユダヤ民族を隔離しました。劣悪な衛生環境と食糧事情からこのとき多くのユダヤ人が亡くなったようです。
当初ユダヤ人の追放を目的としたナチスの思想は最終的にユダヤ民族の絶滅を望むものとなります。銃殺やガス実験によって、最終的には250万人ものユダヤ人が殲滅されたそうです。
三国同盟と日本との関わり
実は第二次世界大戦において、日本はこのナチス・ドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結んでいます。イタリアもムッソリーニの率いるファシスト政権であることを考えると、とんでもない同盟ですね。ヒトラー自身、最初は日本人を蔑視していましたが親日派の側近たちを通して日本に触れ、いくつか肯定的な発言を残しています。
しかし、ヒトラーの思想はあくまでドイツ民族の優等を主張するものですから、ヒトラーが親日となっていたかはわかりません。政治的背景から日本にある程度配慮をしていただけである可能性も考えられます。
ヒトラーの政治手法
ヒトラーの政治手法は、ある種興味深いものです。ヒトラーは第一次大戦での敗戦によって、困窮したドイツを一時的とはいえ強大な国家へと成長させました。ドラッカーも自著の中で否定的な意味ですが、カリスマの例としてヒトラーをあげています。
ヒトラーの人心掌握術
ヒトラーは、若い頃から演説を得意としていました。民衆を興奮・熱狂させる術を心得ており、話すことを書くことよりも重視しました。
同じ内容を何度も繰り返すことや、ジェスチャー、演説における一風変わった言い回しなど、各所において綿密な設計を行い大衆の興味を引き寄せました。
軍事について
ヒトラーは軍事力を格別に重視しており、国家の基礎は軍事力であると主張し、軍事を司る将軍たちを優遇しました。
軍事に指揮に強く興味をしめし、軍事作戦の立案など細部にわたって軍事行動に関わったようです。
退却や降伏を許せない性格から、軍の参謀本部との関係を悪化させ度重なる敗戦において、その責任は正確性の書いた報告を行った将軍たちにある考えました。
芸術と政治
ヒトラーは、芸術に強い関心を持っていたようです。ラジオやテレビ、映画などをプロパガンダに活用するなどメディアの力を重視し、ラジオを安価で普及させました。ナチスは芸術を政治の武器として利用することに関心を示し、芸術によって人心を操ろうとしました。
ヒトラーの功績
独裁者として負のイメージがつきまとうヒトラーですが、彼の行った政策には世界最大の失業者救済事業と言われるアウトバーン、国民車計画(ドイツ国民が安価に車をもてるようフォルクスワーゲンをつくった)や自然保護法などの政策を行っています。政治家としてのヒトラーの手腕は確かなものであったと言えるでしょう。
政界進出までのヒトラー
少年期
ヒトラーは1889年、4月20日、オーストリアのブラウナウで生まれました。3歳の時、ドイツ帝国バイエルン王国に一家で引っ越しています。幼いヒトラーは普仏戦争の本を読み、戦争に興味を抱くようになったといいます。
少年期のヒトラーは過干渉な父親アロイスに強い反抗心をもち、その反動で父親の嫌うドイツ主義へと傾倒していきました。
小学校におけるヒトラーはとても優秀だったそうですが、その後の父に強要されて入学したリンツ実家中等学校を成績不振で退学、その後のシュタイアー実家中等学校も成績不振と素行の悪さから退学しています。
青年期-挫折と放蕩
退学後のヒトラーは画家を志ざし、ウィーン美術アカデミーを受験しますが結果は不合格、その後に目指した建築家も中等教育を卒業していないことから断念しています。この時期、母親の死によって多額の遺産を手にしたヒトラーは、ウィーンで絵を売って暮らしていました。
軍への入隊と世界大戦
1915年、ヒトラーはバイエルン陸軍に義勇兵として入隊しています。軍人としてのヒトラーは優秀であったようで、6回もの受勲を受けています。ドイツへ強い愛国心を持っていたヒトラーは、第一次大戦においてドイツが敗北した際、激しく動揺しドイツを救うことを自らの使命と考えるようになります。
政界での大躍進
政界への進出
一時世界大戦以降、ヒトラーは政治家になることを志ざします。軍人から政府の諜報員となり、その後政治活動に加わりました。
頭角を現し、政党の指導者へ
ヒトラーはドイツ労働者党の専従職員になり、過激な演説で名を馳せるようになります。ヒトラー派を党内に組織し、次第に党内を制圧していきました。党名は「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」に改名され、党内での分派闘争の果てにヒトラーは第一議長として党の指導者とのなりました。
ナチ党とヒトラー
ミュンヘン一揆
1923年、11月8日から9日にかけてヒトラーらナチ党員が参加したドイツ闘争連盟は、ベルリン中央政府に対してクーデター未遂を起こしました。
ヒトラーは捕らえられ裁判にかけられましたが、弁解を行わず自らの主張を述べる戦術をとりました。当時、多くのドイツ国民は政府の弱腰な外交に不満を貯めており、これによりヒトラーは多くの支持を得るようになりました。
ヒトラーの著書として有名な「我が闘争」はこの時期に書かれました。我が闘争はヒトラーの自伝と政治的世界観の表明によって構成されています。
ナチ党が第1党となり、ヒトラーは首相に就任
1929年、世界恐慌によって経済が急激に悪化したドイツにてナチ党は急激に成長せていきました。1932年の国会選挙において三割強の得票率でナチ党は国会第1党になります。これによってヒトラーは首相に就任しました。
独裁体制の確立
その後、ナチ党は共産党員を法手続きに寄らずに逮捕できる大統領緊急法令を発令し、国会を掌握しました。国会で全権委任法を可決、大統領と議会の権限を形骸化し、ナチ党以外の政党を禁止することで単独の党による政治体制を樹立しました。
ナチ党内部においては、1934年にヒトラーらと対立する派閥を非合法手段での粛清が行われ、これによってヒトラーの独裁体制が完成しています。
第二次世界大戦とナチス・ドイツ
ヒトラー率いるナチス・ドイツはその政治思想にしたがって侵略戦争を繰り返し領土を拡大しましたが、1945年独ソ戦での敗戦から形勢が代わり、ドイツは敗戦を続けドイツは降伏し同年4月5日にヒトラーは自決しています。