20世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(正式名称はハイデッガー)、一度は名前を耳にしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、その哲学は幅広くそして難解で調べてみて挫折してしまう方も多いと思います。

このページでは、ハイデガーを出来るだけ分かりやすく紹介していますので是非ご覧ください。

マルティン・ハイデガーとは

ヘーベル賞授賞式典にて(1960年) – 参照:Wikipedia

進行はわし、ソクラテスじゃ。今回はハイデガーがゲストじゃ。よろしく頼むぞ。

はい、日本の方にはハイデガーとして馴染まれているのですが正式にはハイデッガーといいます。よろしくお願いします!

お主は哲学者としてどのような活動、研究をしたんじゃ?

私は、とにかく幅広く哲学者を研究してその考えを大学の講義で広めてきました!私の持論が特に深いのは「存在のあり方」についてです!

ほう、「存在のあり方」か!近代では哲学者の多くが解き明かそうとしていた問題じゃのう。

お主はどのように考えていたんじゃ?

当時、存在については、認識論の観点から証明できないものとして考えられていました。

簡単に言うと夢を見ている時、対象は本物に見えますが覚めるとそれが偽りだと気づきます。人間達が今現実だと思っている事も夢であるという可能性を考えると目の前の対象が存在しているかどうか証明できないという考え方です。

一方、私は証明できないで話を終わりにするのではなく、存在している事を前提に存在しているものはなぜ存在しているのかを考えて研究していったのです。

ハイデガーは一言で表すと、幅広い哲学者を研究し講演活動や著書を執筆する事でその考えを広く示した人物です。中でも代表的なのは、「存在のあり方」について見解です。

ハイデガーの研究は非常に高く評価され、様々な大学に招待されていきました。更には、当時ドイツを牛耳っていたナチス党の幹部の目にもとまり関係を持ったハイデガーはナチス党に入党しています。

存在のあり方について唱える

当時ドイツの哲学者達による存在に対しての風潮としては、カントが唱えた「外的世界(自身が見ている世界)を完全に証明する事はできない」という考えが主流でした。

このカントの主張は分かりやすく説明します。自分が見ている世界が例えば夢だとしたらそれは存在しない事になるが、自分が見ている世界が夢でなく現実だと証明する事はできないので自分が見ている世界は証明できないという考えです。

この考え方に対して、ハイデガーは「対象がある事を前提にして、その対象はなぜ有るのかを考えるべき」という事で研究を進めていきました。

ナチス党に入党

一時期、ハイデガーはナチス党へ入党し、ナチスをかなり支持する姿勢を保っていました。

この背景には、育ってきた地域の環境も関わっています。ハイデガーは南ドイツの生まれですが、この地域ではカトリック教会と自由主義(資本主義)とが権力を巡って争っていました。

ハイデガーの一家はカトリック側に属していましたが、二つの対立は自由主義側が優勢となったためカトリック派の人々たちは虐げられるような過去もありました。

これだけが理由ではないですが、自由主義を淘汰しようとするナチス党の考えと過去に虐げられたハイデガーは意見が沿うような部分もあった事は確かです。

ハイデガー幼少期

ハイデガーが少年期を過ごしたメスキルヒの家 – 参照:Wikipedia

ドイツの田舎町で信仰心の厚い家庭にうまれる

お主は南ドイツの生まれじゃな。お主の一家はカトリックの信者だったんじゃのう。

はい。当時、南ドイツではカトリック側と反対派の自由主義側で争いもありました。カトリック側は争いに負け自由主義側に嫌がらせや自由主義に寝返らないと不利になるような形になってしまいました。

私の一家はその中でもカトリックの精神を貫き通して行きました。

大変な時代に巻き込まれたんじゃのう。そんな信仰心が強い一家で育ったお主はどこで哲学に関心を持ったんじゃ?

関心を持ったきっかけは、それこそソクラテスさんの弟子であるプラトンやアリストテレスの授業を受けた事です!

それ以来「存在への問い」についてはずっと関心を持ってきました!

1889年にハイデガーは南ドイツのミスキルヒという山村に生まれました。正式名称はマルティン・ハイデッガーです。ここは信仰心の厚い土地で、ハイデガーも幼い頃から宗教に関心を持っていました。

ハイデガーと哲学の出会いは高校の時の授業でした。当時授業でプラトンやアリストテレスを学習し哲学へ意識を向けることになりました。特にアリストテレスには影響を大きく受け「存在の問い」に関心を持つようになります。

ハイデガーの生まれた南ドイツの背景

後ほど、ハイデガーがナチス党に入党する事にも関わるため南ドイツの宗教と国家の関わり合いを説明していきます。

南ドイツでは、上記でも記しましたがカトリック教会と自由主義を主張する者と達とで対立していました。

その政策には、やがて国の政策も関わりドイツ帝国の宰相であるビスマルクが文化闘争、いわゆるカトリック教会の力を抑圧する政策を打ち出します。対してカトリックの総本山であるローマの教皇もカトリックを支持する姿勢を持ったためこの対立は大きな争いになっていきます。

やがてこの争いはドイツ帝国が加担した自由主義側が勝利という形になりますが、勝利した自由主義側は負けたカトリック教会の信者達を虐げていました。

哲学に捧げた大学時代

フライブルク大学 – 参照:Wikipedia

哲学に目覚め、専攻をチェンジ

お主はとても優秀だったそうじゃのう。なぜ神学部から転学したんじゃ?

やはり、「存在の問い」の関心が強く残っていたんです!その答えは神学からではなく、哲学的だったり物理的に考えた方が答えが出ると思ったんです!

彼は高校卒業後イエズス会に入会し、また、フライブルク大学の神学部に神学する事になります。ハイデガーは大学時代もとても勉強熱心であり勉強のし過ぎで神経性の障害を起こして休養している程です。

しかし、大学に入学した二年後、ハイデガーは専攻を数学・自然科学部に変更します。アリストテレスを学び哲学への関心が残っていました。当時これらの学部は、答えが出せない哲学を数字で解き明かすという意味もありました。

あったハイデガーは、「存在の問い」に通じる空間や時間の問題は数学的に考える事で解決に近づくと考えました。大学関係者の目にも彼の才能は明らかで、奨学金を与えられました。

同じ本を二年借り続け、フッサールと出会う

ほう、本を通して出会ったのが最初か!お主はフッサールのどの部分に感銘を受けたんじゃ?

フッサールさんは、「存在の問い」の答えを一種示してくれたんです。存在の問いに対してある種この本を読んだ事で出発点となりました!

大学に入ってまもないある日、ハイデガーは一冊の本を図書館から借りました。それは、ユダヤ系哲学者エドムンド・フッサールの『論理学研究』でした。

ハイデガーは『論理学研究』に心を奪われ、なんと二年間この本を借り続けて、何度も読み返しました。フッサールの提唱する現象学は、「わたしたちはなぜ、世界の存在を確信しているのか?」という謎を解明するものです。

第一次世界大戦の勃発

お主は身体が弱かったそうじゃのう。それが兵士とならずに済み逆に良かったのかもしれんが…

はい、身体が弱くて兵役を免れたのは私にとっては幸運でした!

仕事も夕方には終わり、そこから哲学を研究してここで私講師にもなれたのでとても良かったです!

郵便の検閲係

1914年、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入します。ハイデガーも他の若者たちと同じく軍隊に招集されますが、心臓が弱かったために予備役兵にまわされ、フライブルクで郵便の検閲の仕事をすることになります。

郵便の検閲係は17時に業務が終わりその後は彼は哲学に打ち込むことができました。翌年の1915年には、教授の資格を得るための論文を提出しそれが受け入れられハイデガーはフライブルク大学の私講師として教鞭をとります。

フッサールから学び『存在と時間』を執筆

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フッサール(「存在と時間」はフッサール編集の雑誌に前半部が掲載された) – 参照:Wikipedia

フッサールとの出会い

感銘を受けていたフッサールが来るとはとても恵まれていたのう!

はい!これは本当に幸運で私が私講師として働いていた大学にフッサールが来てくれてすぐに学びに行きました!

後に存在について説いた「存在と時間」という著作を発表しますが、これはフッサールの影響をかなり受けています!

フッサールの著書を読み非常に高い関心を持っていたハイデガーですが、ここで転機が訪れます。ハイデガーが私講師として活動していたフライブルク大学へフッサールが赴任する事になります。

ハイデガーはフッサールに直接学び、そして高い評価も得ます。フッサールは著名でもあったため多くの学者と通じていてハイデガーの見識もさらに広がりました。

やがて、フッサール及びその周囲の人々がハイデガーを推薦した事でゲッティンゲン大学やマールブルク大学など数々の大学に招待され講義活動を進め実績を持ちます。

ハンナ・アーレントとの不倫

お主は不倫もしておったんじゃのう…

ええ、、
妻がいたのですが、複数の女性と関係を持ちました…

その中の一人、ハンナ・アーレントは不倫関係は終わりましたが晩年まで関係は続きました。ハンナのエピソードは映画にもなりましたね!

様々な大学に招待されるようになったハイデガーですが、当時結婚していたのにも関わらず複数の女性との不倫もしていました。

その中の一人ハンナ・アーレントはユダヤ人女性で愛人関係が続き最後には破局してしまいます。しかし、この女性はとても優秀な女性でもありその後ハイデガーが下向きになった際にも関わっており晩年までハイデガーを高く評価していました。

独自の言葉を用いて『存在と時間』を執筆

不倫もあったが、お主の学者としての研究は進んでおったんじゃのう。これが、「存在のあり方」について説いた著書か。

簡単にどんな内容か説明してくれるかのう。

はい、当時「存在のあり方」については、「ただ単に存在するだけの対象」と「人の関心が向けられた対象」とを『存在的と存在論的』という言葉で表されていました。

しかし、これは、人間が認識できるものが前提になっています。なので私は人間の認識外に存在するものも含める必要があり『実存的と実存論的』という言葉で言い直しここから展開させていきました。

ほう。分かるような、分からないようなという感じじゃのう。

そこから展開しどのような答えにたどり着いたんじゃ?

抽象的な問題でもありますからね…

私の立場としては、存在論を語る際に人間は世界の構成の一部に過ぎないという事を前提にしなければいけない。

そして、人間は道具を通して他者と関わる存在であり、それこそが人間という存在の本質であるとしました。

1927年、彼は自身の哲学を展開した著作を公開します。その名も『存在と時間』。この著作は、フッサールが編集していた年報に掲載されました。しかし、掲載されたのは前半部のみで完結に至ることはありませんでした。

「存在するとはどういうことか」、この問いについて考える学問を存在論といいます。かつて古代ギリシアのソクラテス以前の哲学者たちは、存在についての思索を深く巡らせていました。

しかし、近代哲学では「人は物事をどうやって認識するのか」という、認識論が主流になっていました。そんな中で、ハイデガーは存在論を発見させようとしたのです。

存在的なあり方と存在論的なあり方

人間の関心(意識)が向けられたその対象はただ単に”存在する”だけではなく、”存在論的な形”に変化します。存在論はこのような形で単なる存在と区別し展開されます。この違いを存在論的差異といいます。

ハイデガーは、この『存在と存在論』という言葉に対して「人間から見た世界というのが前提の言葉であり人間の認識から外れた世界で存在する対象を研究する上では適さない」とし、『実存と実存論』という言葉を用いて研究しました。

現存在と世界内存在

ハイデガーは、人間の事を現存在という言葉で表しています。その上で、現存在は常に世界の中に存在しているという事を前提に置き進めなければいけないという考え方を世界内存在と言います。

これは、現存在はあくまでも今ある世界に移住してきたのではなく既に存在する世界を構成している要素の一つであるという考え方です。

共同存在

ハイデガーは共同存在、つまり他者が存在し関わっているという構造こそが現存在の本質であるとしました。

この他者は実際に会っている者だけではなく、道具や物を通じて他者と関わる事も含まれます。

戦争と晩年のハイデガー

ナチス式敬礼(ハイデガーが大学総長となりナチス式の敬礼を行った) – 参照:Wikipedia

ナチス党へ入党

とても順調な大学の講師生活を送っている中でどうしてナチス党へ入党することになったんじゃ?

幼少期の頃からの自由主義派に対しての考え方がナチスと一緒だったのと、あとは大学の総長の選挙に加担してもらった事が大きかったです。

ですが、すぐにナチスへ疑問を感じ距離を置くようになりました。

「存在と時間」は高く評価され、名声を得たハイデガーはマールブルク大学の正教授となります。丁度、その頃ナチス党が勢力を伸ばしており、フッサールを通じて政治とも触れていたハイデガーはナチスとの関わりも強くなっていきます。

1933年になるとヒトラーが首相となりナチスが政権のトップとなります。同じ頃にフライブルク大学の総長の選挙がありハイデガーも候補として選出されます。

学長選挙でハイデガーは、ナチス議員からの支援を受け当選し総長となります。ナチスの後ろ盾があったハイデガーはそのままナチス党へ入党し、学長となったフライブルク大学でもナチスに沿った教育を進めていきます。

すぐ辞任となった大学総長

フライブルク大学の総長となったハイデガーですが、大学をナチス一色に染めようとした事がきっかけで大学内で反対派が増えていきます。やがて内紛となり収集できなくったハイデガーは責任を取らされ総長を辞任する事となります。

辞任したハイデガーは過激な活動を繰り返すナチス党に疑問を持つようになります。ハイデガーの友人も処罰を受けた事で反感に変わりナチス党との関係は断たれる形となりました。

ドイツ軍敗戦、そしてハイデガー追放

ドイツ軍の敗戦か…

この敗戦はお主にどのような影響を与えたんじゃ?

敗戦国のドイツにはフランスが介入しナチスと関係が深かった者たちを査問して取り締まっていました。

私も入党していた事があったので査問にかかり大学を辞任する事になってしまいました…

第二次世界大戦が末期になるとハイデガーも兵士として召集されます。ただ、かつて講演活動を進めた大学らがハイデガーの兵役免除を願い出て許可されたためハイデガーは敗戦の直前にドイツ軍を除隊することになります。

そして1945年、ドイツは戦争に敗れフランス軍の委員会が入りナチス党へ加入していた者を査問し取り締まり始めます。かつてナチスに入党していたハイデガーも査問の対象となり大学の職を剥奪されました。

晩年は復職し講演活動を繰り返した

大学の職を失った後はどのように過ごしていたんじゃ?

本当に恵まれていたのですが、私の知人達がフランスの委員会に働きかけてくれて復職することができたんです!

その後は、講演や執筆活動で少しでも貢献したくやり続けました!

大学教授の立場を失ったハイデガーでしたが、大学関係者などはハイデガーを復職させたいと考える者たちが多くいました。そしてその者たちがフランスの委員会に働きかけ続けました。

結果、ハイデガーは復職を認められフライブルク大学の名誉教授となります。ハイデガーは86歳で亡くなる事になりますが、死の直前まで講演や執筆活動を継続しその優れた考えを広め続けました。

マルティン・ハイデガー – まとめ

いかがでしたでしょうか。ハイデガーは、若い頃から哲学者を研究し続け世に広め続けて来た人物です。特に「存在のあり方」については、深く研究を進め独自の哲学を展開しました。

ただ、その一方でナチス党へ入党するなで偏った考え方をする人物でもありました。その事で不利になり場面もありましたが常にハイデガーは周りの人の働きかけがあり助けられてきました。それだけ優秀だったのでしょう。

とても難解な哲学を取り扱っていたため難しかったと思いますが、ハイデガーの一部をこの記事を通して理解して頂いたと思います。また次回作にもご期待ください。