チャールズ・ダーウィンとは

チャールズ・ダーウィンは一言で言うと、多くの卓越した科学的発見を残した地質学者・生物学者です。

ダーウィンの提唱した進化論は『ダーウィニズム』とも呼ばれており、生物学的な発見だけにとどまらず、当時のイギリス社会の帝国主義思想や階級社会の風潮にも深く影響を与えました。

ダーウィンはどのようにして『種の起源』発表に至ったのか、彼はどのように生涯を過ごしたのかを紹介します。

現代生物学の基礎を作った

ダーウィンの発見は、地球上のさまざまな生物の多様性について一貫性のある理論を持っています。そのため、ダーウィン没後130年以上経った今でも、彼の研究は私たちが今日学んでいる生物学の基礎を成しています。

『100名のもっとも偉大な英国人』投票で第4位を獲得した

イギリスのニュース番組『BBC』が2002年に発表した『100名のもっとも偉大な英国人』で、ダーウィンはその功績を認められ第4位に選ばれました。

ちなみに、ダーウィンは19世紀下で、王族以外で国葬された、たった5人のうちの1人でした。彼が生きた時代から現代まで、ダーウィンの卓越性は広く評価されていました。

チャールズ・ダーウィンの幼少期

1809年イングランドに生まれる

ダーウィンは1809年2月に、イングランドの土地で、裕福な家庭の次男に産まれました。後に生物学者として名を残すダーウィンの母方祖父は、今日でもティーカップや紅茶で有名な『ウェッジウッド社』の創始者でした。

ダーウィンの母は、彼がまだ8歳の頃に亡くなったため、彼の3人の姉たちが母親代わりになっていたそうです。

博物学を好んでいた

ダーウィンが8歳になるころにはすでに、植物や貝殻集めに興味を示しており、彼の博物学的な趣味と才能は萌芽していました。

幼い頃から、父から自分専用の庭を与えてもらったり、祖父の化学実験の手伝いをさせてもらったりと、ダーウィンは自分の興味を表現する環境に恵まれていました。

医師を目指した大学時代

エディンバラ大学で医学を学ぶ

16歳になったダーウィンは、親元を離れてエディンバラ大学へ入学しました。

学んだ分野は、地質学と医学です。医学を学んだ理由は、父の医業をサポートするためでしたが、彼は血液を見ることがあまり得意ではなく外科手術にも、また昆虫採集などの活動とは真反対の学究的な講義にも馴染めませんでした。

ケンブリッジ大学に入学

エディンバラ大学で思うような成績が出せなかったダーウィンは、父の計らいによってケンブリッジ大学へ転校しました。

転校後は牧師になるために、神学をはじめ古典や数学を学びましたが、ダーウィンは必修科目ではなかった博物学と昆虫採集にもっとも興味を示し、日々没頭しました。

ヘンズローに出会う

この頃ダーウィンは、はとこの紹介で、ヘンズローという名の聖職者を出会います。ヘンズローは、聖職者のほかに博物学者としての顔も持っており、のちのダーウィンの活躍に大きな影響を与えました。

博物学に没頭する日々

測量船ビーグル号に乗船

ケンブリッジ大学を卒業したあとのダーウィンは、前述のヘンズローの計らいで、イギリス海軍のビーグル号に乗船できることになりました。

1831年に出航した測量船・ビーグル号にダーウィンも乗船していました。この5年間の旅路のなかで、ダーウィンは南半球を中心に多くの島や都市を訪れました。

元々彼は、正式な博物学者としての乗船ではありませんでしたが、航海の途中、リオデジャネイロで正式な博物学者だった人が降りたため、後任に選ばれたそうです。

火山や生物について観察した

航海の中で、ダーウィンは訪れた島の火山や生物について調査し、記録を残しました。

ガラパゴス諸島に到着した当時の彼は、まだあまり生物の多様性について理解しておらず、生物のありのままの姿を観察する程度に留まっていました。そのため、鳥類などの採集のツメが甘かったそうで、のちのち後悔したと言われています。

帰国後はロンドンへ移住

ビーグル号から下船したあとのダーウィンは、より研究を進めやすいようにロンドンへ活動拠点を移しました。そこで新たに学者の輪に加わり、生物学者・地質学者としての仕事に没頭していきます。

さらに研究に熱中した

研究結果を発表する会議や他者の意見を通して、ダーウィンはついに、「種がほかの種に変化する」可能性に至ります。

彼は、今まで考慮していた、1つの系統がより高水準の体系へと進歩するという考え方を捨て、生命は1つの存在から徐々に形態を変え、分岐していく存在だと捉えるようになりました。

種の変化について注意深く観る

ダーウィンは1838年には地質学会の事務局長になり、その一方で種の変化についての調査を行っていました。

彼の調査対象は博物学の専門家だけに留まらず、農民や農家、親戚や元船員仲間など幅広い層から経験談を聞き出し、情報を集めました。

『ダーウィンの進化論』に至るまで

ケント州ダウン村に移住

ダーウィンは1842年に、はじめて進化論の原案を執筆し始めましたが、それに至るまで、結婚や何度かの体調不良などのライフイベントがありました。

相次ぐ体調不良に苛まれたダーウィンは、より静かで清潔な場所を探して、ロンドン近郊のダウン村へと移住しました。

彼は万が一、己が研究の道半ばで亡くなってしまったときのために、230ページのエッセイをしたためて、妻に有事の際は代わりに出版するように頼んだそうです。

自然選択説の執筆開始

ダーウィンは、種の変化について学ぶために、多くの人物に話を聞きました。その中に、ハトの育種者と、その品種改良の観察も含まれていました。

ハトがさまざまな特性を持つ多様な形態に改良されていることに驚いた彼は、生き物には優劣があり、生きる上で、あるいは繁殖する上での有利さに差があるのではないかと考えます。

このダーウィンの発見は、今まで、すべて神の計らいにほかならないと説明されてきた生物の多様性に、これまでとは違った説明や仮説を立てることを可能にしました。

自然選択説とは

『自然選択説』は『自然淘汰説』とも言われ、生物が生きる上で困難な問題に直面した際に、自然的に起きる変異(突然変異)させ、環境に適応するための進化を与えるという説です。

分かりやすい例として、キリンが挙げられます。

キリンは首がとても長いですよね。彼らキリンは、高い位置にあるエサを食べるために、今日見られる姿へと進化しました。その変化の過程で、キリンには前述の自然選択が作用しています。

首の短い個体は、ほかの動物とエサの取り合いになってしまい、なかなか生き残ることができませんが、首の長い個体は競合個体が少ないため安定して食料を手に入れられます。

このように、同じ『キリン』のなかで、彼らは生存競争を無意識に行っていて、それに勝った個体はその性質を子孫に多く伝えます。反対に、生き残れなかった者の性質を持つ個体は減少していくのです。

この『自然選択(淘汰)』を繰り返して、キリンは現在生存するために適切な姿へと変化していきました。

『種の起源』出版

ダーウィンは自然選択説の原案執筆開始から3年後の11月に『種の起源』を出版しました。ダーウィンは、直訳で『進化』を表す“evolution”ではなく、“descent with modification(=変化を伴った由来)”という言葉と、自身が積み重ねてきた観察や実験を判断材料に用い、進化論を理論的に説明しました。

この『種の起源』は、学者以外でも読みやすいように書かれており、幅広い層に手に取られることとなります。

以降も多くの著書を出版した

『種の起源』を出版したあとは、『人間の由来』や『人間と動物の感情表現』、『食虫植物』などの著書を発表しました。

そのなかでも、『人間の由来』は、『種の起源』に続いて2番目に有名な作品です。

この著書のなかでは、『種の起源』発刊当時には詳細に語られなかった、人間の由来と進化について詳しく記しています。

ダーウィンは生前に、ヒトの近縁種の類人猿がアフリカにのみ生息していることから、ヒトはアフリカで誕生したと予想していました。ダーウィン自身がこの予想の結果を知ることはできませんでしたが、彼亡きあとに、その予想が合っていたと分かりました。

そして、『種の起源』発刊から23年後、ダーウィンは73歳のとき、心臓発作により亡くなりました。