フッサールとは

エトムント・フッサールは20世紀前半に活躍した哲学者で、現象学を確立したことで知られています。彼の書く文章は非常に難解で、細かい事柄がさらに細かく記され、一般的にはとっつきにくい印象を持たれています。

しかし、彼の提唱した現象学はハイデッガーなどに継承され、幅広い分野に現在でも大きな影響を与えています。

現象学を提唱した

 フッサールは当初数学者を目指して数学で学位を取得したものの、後に哲学の分野に転身し現象学を提唱しました。

事象を捉えるのに事象そのものではなく内在的に発生した意識に目を向けるという新しい方法で、事象の本質に迫ります。現象学は難解ではありますが、新しい哲学として多くの賛同者を集めました。

 数学の世界では、事象の存在をまず疑うことなく認めることから思索をスタートさせていたのに対し、現象学ではその存在を認識している自らの意識を検証することになります。

現象学をさらに深化させた

当初の現象学では、具体的に存在する事象をテーマにしていましたが、後に具体的には存在しない内部発生的な意識を検証する方法論にまで現象学を深化させました。

これが超越論的現象学から発生的現象学への深化となります。現象学はこのように哲学の一分野ではありますが、学問の基礎としての方法論として多くの研究者に受け入れられていきました。

彼は何事も書き残すことを旨としており、彼の残した原稿は数万ページにも及んでおり、世界各地にあるフッサール文庫で保存・研究されています。

多くの学問の基礎として応用される現象学

フッサールは主に数学や物理などの自然科学の基礎になる方法論として現象学を提唱しましたが、政治学など人文科学の分野でも基礎的な考え方の方法論として応用されています。

彼の提唱した現象学は幅広い分野に拡がるほどの普遍性を持っていたことが分かります。後継者としてはハイデッカーやサルトルなどがおり、現代では日本にもフッサール研究会が存在しています。

フッサールの生い立ち

 フッサールは1859年、オーストリアのプロスニッツ(現在ではチェコ共和国)という町に生まれました。

父親はユダヤ人でこの町で洋品店を営んでいました。故郷には生家はすでに取り壊されて残っていませんが、彼の名を冠した「フッサール広場」があるそうです。

 近在のギムナジウム(日本でいうところの中学高校一貫校)を卒業後、1876年ライプチヒ大学に進学。ここでは数学に特に興味を示し数学者への道を目指して、1978年ベルリン大学に進みました。

さらに1881年にはウィーン大学に移り、ここで数学論文により学位を取得しています。このころは数学者として順調に歩を進めていたようです。

数学者から哲学者へ、現象学の誕生

ブレンターノとの出会い

このウィーン大学でフッサールはある人と出会います。フランツ・ブレンターノという人です。

ブレンターノは哲学の世界に「志向性」という概念を導入したのですが、フッサールに多大な影響を与え、この概念は現象学のベースとなっています。

この出会いは、故郷プロスニッツの先輩でチェコスロバキア建国の父と呼ばれているマサリクがフッサールに「ブレンターノの元で学んでみれば」と薦めたことによるそうです。

このことがフッサール個人のみならず哲学の世界を大きく変えるきっかけになっています。結局、フッサールはブレンターノの元で二年間哲学を学ぶこととなりました。

数学から哲学への転身

その後、ブレンターノの薦めもあって1886年ドイツのハレ大学に移り講師となります。そして1891年「算術の哲学」と言う初の著作を出版します。

この「算術の哲学」は、ゴットロープ・フレーゲらにその心理学主義を大いに批判されました。心理学主義はある事象を個々人がもっともらしいと思う気持ちで捉える考え方で、真理の存在を否定する可能性がある考え方です。

この批判を受け入れたフッサールは数学者としての限界を感じ、哲学者へと舵を切ります。

現象学の誕生

そしてその9年後の1900年、現象学の基本的部分を提唱することになる「論理学研究第一巻」を発表するに至ります。この著作が彼の哲学者としてのスタートになりました。

さらに翌年「論理学的研究第二巻」を出版、彼の現象学はドイツ国内で大きなブームを巻き起こします。

心理学主義を捨て去り、純粋論理、認識論による現象学の提唱に至る過程で、先のブレンターノの志向性の概念を取り込み、エポケーと呼ばれる判断停止、現象学的還元という手法をものにしています。

現象学とは

机の上にリンゴがある状態を考えた時、「リンゴが机の上に存在する」(これを客観と言います)と「リンゴが机の上にあると認識した自分」(これは主観)の二つ状態があります。

この時、リンゴが存在するからそれを認識したという順番、すなわち客観からスタートして主観に至ることを自然的態度(志向性は客観から主観に向かっている)と呼び、現象学ではこれを批判しています。

この自然的態度では、リンゴの存在とリンゴの認識、客観と主観が完全に一致している証拠が得られないからです。

フッサールはリンゴが存在するという客観はひとまず置いておいて(これを先に挙げたエポケーと呼びます)、主観に志向を向けることを提唱しました。

リンゴを認識した自分の主観に目を向け、そこから純粋な意識を取り出そうとしました。(これが現象学的還元です)この現象学的還元の手法を使ってあらゆる問題を解決することを目指しました。

現象学とはさまざまな学問にとっては基礎となる方法論と言ってよく、数学、物理と言った自然科学の分野だけでなく政治や芸術の分野でも応用されています。

このころの現象学を超越論的現象学と呼びますが、後にさらに深化をとげて発生学的現象学と呼ばれるようになります。

現象学をさらに深化

現象学の地位を確固たるものに

「論理学的研究」によって世に認められたフッサールはゲッティンゲン大学に招かれ1906年、正教授に就任します。

同大学には現象学の賛同者が多く集まり、ゲッティンゲン現象学派ができます。この間、フッサールは現象学をさらに深化させることに集中し、先に上げたエポケーや現象学的還元などの手法を理論的に確立させていくことに成功しました。

 1913年、「純粋現象学と現象学的哲学の構想」、いわゆるイデーン1と呼ばれる代表作を世に表すこととなり、これにより現象学の地位が確固たるものとなります。

 イデーン1のあとがきには「(現象学的還元という方法によって)われわれは本来的には何も失っていない。むしろ絶対的存在全体を獲得したのである」記しており、高らかに現象学の確立を宣言しています。

第一次世界大戦、思索を深める時期

しかしその翌年、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発します。戦闘員、非戦闘員合わせて1,600万人以上の命が失われたこの大戦でフッサールは大切な息子のうち一人、そして多くの親しい友人を亡くしました。

この大戦中の1916年、フッサールはフライブルグ大学の正教授に招かれました。哲学者として充実期を迎えていたこの時期、盛んに執筆活動は行っていましたが、それらが出版されるのは1928年に同大学を定年退官して以降になりました。

この間は自らの考えすべてを書き残すことを徹底していたフッサールにとって執筆によって深く思索を巡らす時期に当たっていたようです。この間で現象学は前意識的な領域に踏み込んだ発生学的現象学へと深化を遂げることになりました。

ハイデッカーとの出会いと決別

フライブルグ大学でフッサールにとってもっとも大きな出来事はハイデッカーとの出会いでしょう。

後に袂を分かつ形となってもなおフッサールはハイデッカーを現象学の後継者として重い信頼を置いていたように、そのの才能に期待していました。1919年ハイデッカーは助手となります。

しかし1927年ハイデッカーの「存在と時間」を読み、すでに二人の間に現象学に対する相違が生じていることにフッサールは気づきました。

ハイデッカーはいくつかの著作でフッサールの現象学に否定的ではありましたが、一方のフッサールはその相違などに気づきながらなおその才に可能性を見ていたようです。

その証として、その後英国のブリタニカ百科事典に現象学の項目執筆を依頼されたフッサールは共同執筆者にハイデッカーを指名しました。

しかし、すでに現象学に対しては相容れない状態になっていたことから最終的にはフッサール一人で執筆を完了させました。そういった思想的な諍いにもかかわらず、1928年、フライブルグ大学を定年退官するにあたっては、後任にハイデッカーを強く推し、向後を託したのでした。

ナチス台頭の陰で

ユダヤ人として迫害を受ける

退官後も精力的に執筆、講演など活動を続け、さらに「イデーンへのあとがき」や「デカルト的省察」などの著作をものにしていましたが、1933年ヒットラーのナチス政権が樹立され、状況は変わってしまいました。

ユダヤ人であったフッサールはナチスのユダヤ人排斥の被害を受け、教授資格を剥奪され、全著作も発売禁止となってしまいました。すでに国際的には名声を博していましたが、ドイツ国内ではこのような制限を受け、活動ができない状態になりました。

最晩年まで精力的に行われた執筆

それでもフッサールは書斎に閉じこもって、真摯に執筆活動に取り組み、毎日10時間をその活動に費やしていました。その結果、1938年に亡くなった時点で未発表の原稿が約45,000ページにも及んでいたと言われています。

これらの原稿はますます厳しくなるユダヤ人迫害の中、ベルギーの神父ファン・ブレダが国外に持ち出すことに成功し、後々まで保管されることになりました。

これらは「フッサール文庫」としてフッサール研究者たちの研究に今でも活かされています。

その後、このフッサール文庫はドイツ国内に2か所、フランス、アメリカに1か所ずつ、世界中で5か所に設立されるに至り、膨大な数のフッサールの著作物が管理研究されています。

この最晩年のフッサールはナチス政権樹立後、プラハやウィーンなどドイツ国外では単発的に講演などを行っていましたが、ドイツ国内では書斎からほとんど出ることはなかったようです。

このころは生まれ故郷のオーストリアに戻りたいという希望があったようですが、それも叶わないことと諦めたのか、1938年4月、22年間過ごしたドイツ、フライブルグでその79年の生涯に幕を閉じました。