アリストテレスは古代ギリシャの哲学者です。ソクラテス、プラトンとともに西洋最大の哲学者の一人とされ、多岐にわたる研究と功績から「万学の祖」とも呼ばれた偉人です。
プラトンの弟子でもあった彼の研究は、後世に大きな影響を与え、あらゆる学問の基礎を築いたと言っても過言ではありません。
本記事は、アリストテレスの人物や理論、名言などについて紹介していきます。
アリストテレスとは
進行はわし、ソクラテスじゃ!
お主がアリストテレスか!わしの孫弟子になるのかのう。
はい。先生のお弟子であるプラトン先生に師事しておりました。
わしやプラトンの教えをさらに進めて世に広めてくれたのじゃのう・・・おぬしの多岐にわたる研究にはわしも頭がさがるわい。
ありがとうございます。
人は生まれながらに知恵を求めるというのが私の考えです。先生方とは異なる思想もありますが、全ては人々が良い方向に進む為に、です。
万学の祖
アリストテレスは、その多岐にわたる自然研究の業績から、「万学の祖」と呼ばれています。
形而上学、倫理学、政治学、天体学、自然学、気象学、生物学、詩学、演劇学と幅広い分野の学問に精通しており、それぞれの分野の体系づけに大きく貢献しました。
現在の私たちが学問の区分としている、「自然学」や「倫理学」「政治学」などは、アリストテレスによって枠組みが作られました。
大半は失われてしまいましたが、500巻以上の本や講義ノートを書き残しており、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学にも多大な影響を与えました。
「哲学」の語源
「人は誰でも、生まれながらに知恵を求める」
アリストテレスの言葉です。アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えました。
ギリシア語では、「知を愛する」ことをフィロソフィアと呼び、この言葉がヨーロッパ各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となりました。アリストテレスの言う「哲学」とは、現在の意味とは少し異なり、人間の知的欲求を満たすための知的行為そのものを意味しています。
つまり、あらゆる学問分野は全てフィロソフィア(哲学)に該当するということになります。
学問の道へのきっかけ
幼い頃に両親を亡くす
まずお主の幼い頃の話を聞かせてくれ。どんな子供だったんじゃ?
金持ちのせがれじゃったのか?
私はスタゲイロスという小さな町の医者の子供として生まれました。父は王様の侍医をしておりましたが、私の幼い頃に母ともども亡くなってしまい・・・(涙)
いや、それはすまんことを・・・泣かんでくれ。
大哲学者アリストテレスは、何がきっかけで哲学の道へ入ることとなったのでしょうか?
アリストテレスは紀元前384年に、当時マケドニア王国の支配下にあったトラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)という小さな町で生まれました。
父ニコマコスは、後のアレクサンドロス大王の祖父にあたるアミュンタス王の侍医として仕えていたこともあり、アリストテレスは幼いころから医学や生物学に接する機会が多かったと言われています。
アリストテレスは幼いうちに両親を亡くしました。両親を亡くした後は、義兄で医師のプロクセノスを後見人として、アタルネウスに移り住むこととなりました。
医者の子供に生まれた境遇に加え、プロクセノスからも科学、哲学の基礎教育を受けたことが、若きアリストテレスに学問への探求心を深く根付かせたのでしょう。
そして、プラトンの著書に出会い感銘を受けたことが、後にアカデメイアに入学するきっかけとなります。
プラトンに師事し勉学に励む
アカデメイアでのアリストテレス
えー、ごほん、気を取り直して・・・してなにゆえ学問の道に進んだのじゃ?
義兄の世話になって暮らしている時にプラトン先生の本を読んだんです!いや~驚きました、世の中にこんな学問があるんだ、って。
それで絶対アカデメイアに入ろうと決意しまして。
プラトンの著書に感銘を受けたアリストテレスは、17-18歳の時にアテナイを訪れ、プラトンが主催する学園アカデメイアに入学することになりました。そこでプラトンに師事し、プラトンが80歳で亡くなるまでの20年間、勉学に勤しみました。
アカデメイアでアリストテレスは、プラトンをはじめとする教師の教えを学ぶだけでなく、批判的な独自の考えも構築していきました。
イデア論への反論
アカデメイアでの学びはお主にどんな影響をもたらしたかのう?
プラトン先生の教えに感銘を受けたのは事実です。しかし私は学んでいくうちに異なる思想を見出しました。
存在の本質は別の世界にあるのではなく現実世界にあると考えたのです。
ううむ、プラトンのイデア論とは反対の考え方じゃな。もう少し詳しく聞かせてくれ。
私はイデアの代わりとなる「質量因」「形相因」「作用因」「目的因」という概念を考えました。
ふむふむ
「質量因」とは素材、「形相因」とは形、「作用因」とはそれが作り出すもの、「目的因」とはその存在の目的です。この4つであらゆる存在の成り立ちは説明することできます。説明が出来るということは、その本質は現実世界にあると言えます。
アリストテレスはプラトンに師事していましたが、プラトンの考えをそのまま引き継いでいる訳ではありません。むしろ、プラトンの考え方を学んだ上で、正反対の思想を作り上げています。
プラトンと言えば、イデア論で有名です。イデア論とは簡単に言うと、「真実や本質は、この世界とは別の世界に存在する」という考え方です。
これに対してアリストテレスは、現実に存在するものの生成や原因は、本質は別の世界にあるというイデア論では説明出来ないと考えました。本質は現実世界に存在する。それを説明する為に彼が考えたのが四原因説です。
「物事の存在原因は、質量因・形相因・作用因・目的因の四つから成り立っている」
こちらは四原因説をテーブルを例にしてあらわした図です。
「質量因」とは、ものを形作っている素材を存在する原因とする考え方。テーブルは木によって存在しています。
「形相因」とは、ものを存在させる為の形です。テーブルの形をしているからテーブルとして存在している訳です。
「作用因」とは、ものを存在させる為の作用、行動です。 テーブルは大工がその形に作り上げます。
「目的因」とは、ものが存在する目的です。テーブルは食事をするなどの目的があるから存在しています。
アリストテレスは徹底的に事象の観察を行い、それによって形のない感覚的なものも現実として捉える事に挑みました。そしてあらわされたのが形而上学や自然学です。
アリストテレスは、アカデメイアでは非常に優秀な成績を修めていました。アカデメイアで学びながら、教師として後進の指導にも当たっていたと言われています。
こうした様子からアリストテレスは、「学校の精神」や「学校の心臓」と評されるようになりました。
アカデメイアを去る
お主、アカデメイアでは教師も務めておったのか。「学校の精神」とは生半可な努力では呼ばれんじゃろう。随分と精進したのう。
考えは反対する事はあってもプラトン先生は私にとって素晴らしい師匠でした。ですから先生の学園のために尽くしたかったのです。
でもプラトン先生が亡くなられ、私もアカデメイアでの役目が終わったように感じました。
紀元前347年、アリストテレスが37歳の時にプラトンが亡くなると、アリストテレスはアカデメイアを退職し、同時にアテナイを去りました。
デモステネスらの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニア支配下領生まれのアリストテレスにとって、非常に住みにくい状況にあったことが理由ではないかと言われています。
アテナイを去ってからしばらくの間、アカデメイア時代の生徒を頼り、小アジアのアッソスやレスボス島で過ごしました。
またこの頃、アリストテレスはピュティアスという女性と結婚し、娘を授かっています。
リュケイオンの設立
アレクサンドロス大王の家庭教師に
さて、アカデメイアを辞めた後、お主どうしたのじゃ?
何か仕事をしないと食べてはいけませんからね。笑
マケドニアの王子様やそのお友達の家庭教師で食いつないでいました。
アレクサンドロス王子への教育は、首都ペレの宮殿ではなく、首都ペラから離れたところにある「ミエザの学園」にて行われました。
ミエザの学園には、アレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として弁論術、文学、科学、医学、そして哲学などを学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていきます。
学園リュケイオンの設立
ほほう、のちのアレクサンドロス大王の家庭教師をやっとったのか!それにしても家庭教師だけでは勿体ないのう。
はい。それを足掛かりにして念願の学校を立ち上げました。
そこには書物を集めて図書館も作ったのですよ。
アリストテレスが家庭教師をしていたアレクサンドロスが王に即位した翌年の紀元前335年、アリストテレス49歳の時にアテナイに戻り、アテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設しました。
「リュケイオン」とは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地にちなんで名付けました。
リュケイオンには、ギリシア文化圏にある地域全体から生徒が集まり、そこではアリストテレスの教えを中心とした学問の学びが行われました。弟子たちとは学園の廊下を逍遥(散歩)しながら議論を交わしたため、アリストテレスの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれました。
また、「他人が書いた本を研究するのは哲学の重要な過程である」というアリストテレスの方針により、リュケイオンには様々な書物が集められ、世界で最古の図書館の一つにもなりました。
リュケイオンは、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続することとなります。
三段論法の生みの親
お主の提唱した方法論に「三段論法」というのがあるな。
どんなものか教えてくれい。
物事は「大前提」「小前提」「結論」で説明することが出来ます。
当時、私がわかりやすく示した例があります。
「大前提」すべての人間は死すべきものである
「小前提」ソクラテスは人間である
「結論」ゆえにソクラテスは死すべきものである
師匠の師匠であるわしを例えに使ったのかぁぁ!!
論理学において、師プラトンは対話により真実を追究する弁証論を哲学の唯一の方法論としましたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視しました。
自然にも、探求心を向ける
お主は自然に対する造詣も深かったと聞いておるぞ。天文や気象、動物に関することまでとか。なんと解剖実験までやったのか!
気になると行動せずにいられないもので・・・知的欲求を満たす行為が哲学と考えておりますから。
・・・・・・。いや、少しひいたが、素晴らしいことじゃ。
生物の内部がどのようになっているのか、わしらの時代はわからぬ事が多かったからのう。
アリストテレスは、当時の西洋社会では初めて「解剖実験」を行いました。
それまでの古代ギリシアの哲学者や研究者は、観察ではなく思考を巡らせることで、世界について考えを深めてきました。
しかし、目に見えるものの中から真実や本質を見つけ出そうとしたアリストテレスは、自然界に存在するものに対しても観察し、記録することにより推論を組み立てていきました。そのスタイルは、今日の科学へ受け継がれています。
アリストテレスの提灯とは、ウニ類の口部にある咀嚼器官のことを言います。アリストテレスが古代ギリシア製の提灯に似た形のものとして、初めて文献に書き残しました。
「俗称や通称ではなく、ウニの口部の正式名称を、日本語で「アリストテレスの提灯」と呼びます。
晩年
リュケイオンにて様々な功績を挙げたアリストテレスですが、最後まで順風満帆というわけではありませんでした。
本章では、アリストテレスの晩年について紹介します。
マケドニアの衰退と迫害~リュケイオンを追われる
色々と話を聞いてきたが、お主とお主の作ったリュケイオンはその後どうなったのじゃ?
アレクサンドロス大王が亡くなられると支えを無くした王国は衰退の一途を辿ることになりました。
マケドニア人への迫害が起こり、私もアテナイから追放される事になってしまいました。リュケイオンは弟子に託しましたが・・・
つらいのう。
その後は母方の故郷に身を寄せて暮らしました。
紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく衰退します。
この頃からアテナイではマケドニア人に対する迫害が起こり、王の家庭教師だったアリストテレスは国家不敬罪でアテナイを追放されました。
アリストテレスの追放後、リュケイオンはアリストテレスの弟子が引き継ぎました。しかし、かつての総合的かつ体系的な学問研究は衰え、実証的、個別的な分野研究がメインとなっていきました。
病に倒れる
アテナイ追放後、アリストテレスは61歳の頃、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せることとなりました。
その翌年に、62歳で死去。
病死と言われていますが、ドクニンジンを飲んで自ら命を絶ったという説もあるようです。
実はアリストテレスのお墓は、つい最近までどこにあるのかが分かっておらず、考古学界における大きな謎となっていました。しかし2016年に、「アリストテレス生誕の地であるスタゲイラで眠っている」という発表が、ギリシャの考古学者からなされました。
アリストテレスの名言
我々の性格は、我々の行動の結果なり。
人間は、目標を追い求める動物である。目標へ到達しようと努力することによってのみ、人生が意味あるものとなる。
人間は、目標を追い求める動物である。目標へ到達しようと努力することによってのみ、人生が意味あるものとなる。
欲望は満たされないことが自然であり、多くの者はそれを満たすためのみで生きる。
幸せかどうかは、自分次第である
私は、敵を倒した者より、自分の欲望を克服した者の方を、より勇者と見る。自らに勝つことこそ、最も難しい勝利だからだ。
アリストテレス―まとめ
いかがでしたでしょうか。偉大な先駆者であるプラトンの影響を受けつつ、新たなアプローチを模索し続けたアリストテレス。哲学のみでなくあらゆる思想において後世へと影響を残したことがお分かりいただけたと思います。
一方で彼の残した学説の中にも誤ったものはありました。しかしアリストテレスが余りに偉大な存在であったためになかなか異論を唱えることが出来なかったようです。「天動説」に異論を唱えたガリレオは裁判にまで巻き込まれました。
ただ、2,400年も前の時代に現在にも通じる研究を成し遂げた彼の功績は、やはり素晴らしいものです。