トマス・ホッブスは一言で言うと「社会契約論」の創始者とされる思想家です。

彼の国家成立への見解は後世に大きな影響をのこし、また彼の社会契約の概念はロック、ルソー、ヒュームへと引き継がれ発展していきます。 政治思想家であり哲学者であったホッブスの思想と歴史について解説していきます。

トマス・ホッブスとは – 社会契約説

生存権

ホッブスは平等な個人個人が生まれながらに生きる権利、すなわち生存権を持つとかんがえました。 この一見当然とも思える権利はある問題を持っていました。

万人の万人対する闘争

生きることが権利としてある以上、全て人間は自分が生きるためにあらゆる暴力を正当化できてしまうのです。

皆が生きるために暴力をふるい戦争状態になることを、ホッブスは「万人の万人に対する闘争」と表しました。 生きるために殺しあう矛盾から逃れるため、人々は暴力を振るう権利を放棄することに同意する必要があるのです。

しかし、誰が裏切るかわからない状態では皆暴力を放棄できません。

社会契約における主権の設定

そこでホッブスは人々の生存権をまもり、人々を統治する主権の設定が必要になったのだと考えました。 これによってホッブスは国家の形成は人々の自己保存のための手段であったのだと主張したのです。

生誕から大学まで

恐怖と共にうまれた

トマス・ホッブスは1589年、イギリスのウィルトーシャ州、マームズベリ近郊にイングランド国教会の牧師の子として生まれます。

この頃、スペインの無敵艦隊(アルマダ)がイギリスへと侵攻してくると言う噂がイギリス南西部にて広がっていました。 この噂による恐怖はホッブスの母親を産気づかせ彼は早産となりました。 自伝でホッブスは「自分は恐怖との双生児であった」と述べています。

父の出奔

ホッブスの父親は、無学で短気な牧師で1604年に同僚との喧嘩がもとで姿を眩ませてしまいます。 残されたホッブスたちは叔父であるフランシスに育てられます。

14歳、オックスフォード大学に入学

ホッブスは1603年、14歳でオックスフォードのモードリンカレッジに入学しました。 この時期のオックスフォードについて「学生生活の退廃は1607年に絶頂に達した。」 などといわれているので彼の学生生活もあまり恵まれたものではなかったでしょう。

大学卒業後

大学後、貴族の家庭教師として働く

ホッブスは大学卒業時、初代ハードウィッグ男爵(のちの初代デヴォンシャ伯爵)の長男ウィリアムの家庭教師として職を得ます。

この出会いはホッブスにとって大変幸運なもので、以来ほぼ生涯に渡ってホッブスとキャベンディッシュ家の交際は続き、生活を保証されます。

フランシス=ベーコンに秘書として仕えた

この時期、ホッブスは帰納法的思考を提唱したことで知られるフランシス・ベーコンの秘書として働いています。 ベーコンに同伴して口述筆記を行なった他、彼のいくつかのエッセイをラテン語に訳しました。

優れた人物は傑物と出会うように世の中はできているのでしょうか。 この時期、ホッブスは最初の著作である「ダービーシャの丘陵についての詩」を書いています。

政治思想家としてデビュー

家庭教師としての生活はホッブスに学問に没頭できる時間をもたらしました。 言葉の曲芸じみたアリストテレス学派び思想はホッブスにはあわず、ホッブスはトゥキディデスを信望します。

ちなみにホッブスにとって政治思想家としての最初の著作は1628年に出版されたトゥキディデスの「ペロポネソス戦史」の翻訳です。

幾何学との出会い

教え子の2代目デヴォンシャ伯が亡くなり、一時的にホッブスは失業状態になってしまいますが、 ほどなく家庭教師としての職を得て、弟子とともにフランス各地とジュネーブを旅しました。

この旅でホッブスはユークリッドの「原論」と出会います。 ホッブスは幾何学に心酔し、以後の幾何学をもとに政治学を構築しようとします。

亡命期

「哲学原本 市民論」の出版

清教徒革命前の1640年、ホッブスは自身の身を案じフランスに亡命しました。 フランスでは亡命してきたイギリス皇太子(後のチャールズ2世)の家庭教師を務めています。

フランスでの亡命期間中、ホッブスは様々な著作を執筆しています。1624年ホッブスは「哲学要綱第3部、市民論」を匿名で出版しました、 この著作によってホッブスは大陸での評価を確立しました。

ホッブスの三部作 哲学原本

ホッブスの社会哲学を構想する「哲学原本」は「物体論」「人間論」「市民論」の三部で構成されています。 ホッブスは物体の自然状態とは運動している状態で、静止している状態ではないとするガリレオの考えに影響をうけ、 その法則を社会哲学に当てはめようとしました。

ホッブスは「物体論」において物体と動きの原則を論じ、「人間論」で人間は外部からの刺激によって動いている物体であること、 そしてそれらの刺激にどう影響されるのかを示しています。 これを踏まえて「市民論」では人間の相互作用が政治に与える影響を提示しました。

帰国後、ロンドンでの暮らし

「リヴァイアサン」の出版とイギリスへの帰国

1651年、イギリスでの内戦が終結しオリバー・クロムウェルの統治下となったイングランド共和国に帰国したホッブスは、 亡命中に執筆した「リヴァイアサン」を出版します。

リヴァイアサン

『リヴァイアサン』はホッブスの代表的著作で、国家成立について論じた政治哲学書です。 ホッブスはこの著書で新しい国家の基礎づけを目指しました。

人間の分析から国家成立をまでを論証し、主権国家であるリヴァイアサンによって人々は統治されるべきだと主張しました。 また地上の国家と神の国家を区別し、国家は神によって作られたのだというそれまでの考え方を覆しました。

論争の日々

帰国後、ホッブスはロンドンで暮らします。 この時期、ホッブスは「物体論」「人間論」を刊行しますが、デリーの主教ブラムホールとの自由意志についての論争や、ソールズベリー主教ウォードと幾何学者ウォリスとの「知的30年戦争」など様々な論争に巻き込まれていきます。

晩年

1660年王政復古後、ホッブスはチャールズ2世のもとで年金をうけとり相談役を務めますが、ホッブスの立場は微妙なものとなります。 ホッブスは自由に著作を出版することがかなわず、以後の著作は全て死後出版となりました。

その中でも「リヴァイアサン」に対応する題名をもったイギリス革命論「ビヒモス」は広く知られています。 晩年には自伝の執筆やホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」 の翻訳などの仕事を為しています。