オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン。名前だけなら聞いた事がある方も多いと思います。

ウィトゲンシュタインは20世紀最高の哲学者と言われ流程で、分析哲学の発展に大きく貢献し、分析哲学の第一人者との呼び声が高い人物です。

本記事では、呼び声高き哲学者がどのような人物なのか?どのような功績があるのか?について、紹介していきます。

ウィトゲンシュタインとは

1930年 – 参照:Wikipedia

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(1889年生~1951年没)は、オーストリアのウィーン出身の哲学者です。

書き残した著書は、今でも「20世紀を代表する哲学書」として多くの人に読まれ続けています。

分析哲学の第一人者

ウィトゲンシュタインは、20世紀における分析哲学の第一人者と言われています。33歳の時に出版した著書の中で、哲学が抱える問題は全て解決できたという理由から、一度は哲学の道から離れています。

言語批判

「言語批判」とは、彼の哲学研究におけるベースとなっていた考え方です。

簡単に言うと、哲学における問題点は、普段使用している言語が原因となっており、故に言語について批判的に考察するといった考え方になります。

この考え方は、生涯を通じて哲学に対する考え方のベースとなっています。

幼少期から大学生まで

大学生時代のウィトゲンシュタイン(1910年) – 参照:Wikipedia

4歳まで言葉を話すことが出来なかった

1889年にオーストリアのウィーンで生まれました。

発育が遅かったためか、4歳になるまで言葉を話すことが出来ず、また話せるようになってからも、重度の吃音症に悩まされました。

そのため、小学校には通わずに、幼少期を過ごすことになります。

音楽へ傾倒

祖父の従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、母はピアニストとしての才能が優れていました。

また、兄は後に有名なピアニストになるなど、ウィトゲンシュタイン一族は音楽との関わりが深い家系です。

彼自身は、特段音楽に秀でていた訳ではありませんが、後の著書の中でも、音楽の例や比喩を度々用いています。

ヒトラーと同級生

15歳の頃から3年の間、高等実科学校にて教育を受けました。

同級生の中には、後にナチス・ドイツの首相となるアドルフ・ヒトラーがいます。

また、この時期は、哲学ではなく航空工学に興味を持っており、卒業後は工学部に進学をします。

ケンブリッジ大学での教鞭と学位の剥奪

高等実科学校を卒業した後、マンチェスター大学工学部へ入学をしました。

在校時には、ラッセルの「数学原理」などを読み、影響を受け、1912年にラッセルの教えを請うために、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学することとなります。

トリニティ・カレッジで哲学を学びましたが、学位論文を提出する際に、指導を受けていたムーア教授と論文の書き方で揉めてしまい、ケンブリッジ大学での学位を全て剥奪されることとなりました。

出征

1914年に第一次世界大戦が勃発し、ハンガリー軍の兵士として出征することになります。

この時期から、自己の内省をノートに書き留めるようになり、これが後に哲学界に大きなインパクトを与える事となる「論理哲学論考」の元ネタとなりました。

「論理哲学論考」執筆

『論考』出版の頃のウィトゲンシュタイン(右から2番目に座っている人物・1920年) – 参照:Wikipedia

「論理哲学論考」の出版

1922年に「論理哲学論考(論考)」が出版されました。

出版の際、数多くの苦難が襲い掛かり、彼自身は出版を諦めてしまうと同時に、哲学に対する熱意も薄れてしまい、田舎にある小学校の教師の職に就いていました。

本人は熱意が薄れている状態でしたが、恩師ラッセルは出版のために多大な尽力をしてくれました。

なかなか前に進まない中、様々な会社を回り、ついにイギリスの会社からの出版を実現させることとなります。

言語の限界

ウィトゲンシュタインの考え方は、「言語批判」がベースとなっています。

「論理哲学論考(論考)」の中では、言語の限界を設定しました。

本書においても、

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

と序文で書いています。

そして、言語の限界を追求し続けた結果、「世界の物事は全て言葉によって表現できる」という結論に至りました。

同時に、「(これまでの)哲学における諸問題は全て解決されたこと」も宣言をしました。

哲学から身を引く

哲学が抱える全ての問題は解決されたという結論に至ったウィトゲンシュタインは、哲学は研究し尽くしたと考え、身を引くことを決意しました。

その後は、オーストリアへ戻り、小学校の教師として教鞭を執りました。

彼が生徒に教える際は、知識だけの教育ではなく、子供たちの好奇心に基づいた体験に重きを置いた教育を大事にしたと言われています。

「哲学探究」の執筆

一度は哲学から身を引く決意をし、田舎へ移り住みましたが、1928年に聴講した数学者の講演を機に、哲学に関してまだやるべきことがあることに気づき、再び研究に戻ることを決心しました。

その後、遺作でもある「哲学探究」を完成させるために、16年もの間、研究を続けることになります。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインは「哲学探究」執筆にあたり、「言語ゲーム」という独自の概念を生み出しています。

言語ゲームとは、言語を様々な実際の活動に合わせて考察をするもので、言語は泣く、笑うなどの人間の活動と同じく、一種の活動に過ぎないという考え方になります。

こうして、彼の思想の主軸は、前期は「言語の限界」、後期は「言語ゲーム」と確立されていくのです。

晩年期

ウィトゲンシュタインの墓。 – 参照:Wikipedia

ケンブリッジ大学への復帰

1929年には講師として、ケンブリッジ大学に復職することになります。

その後、トリニティ・カレッジの特別研究員にも任命されています。

さらに、1939年に前任教授であるムーアが退職した後には、ムーアに替わってケンブリッジ大学の哲学教授にもなっており、イギリスの市民権を取得するまでに至りました。

死後に「哲学探究」が出版される

ウィトゲンシュタインは、前立腺がんに侵されてしまい、2年後の1951年に死去しました。

彼の最期の言葉は、「Tell them I’ve had a wonderful life.(素晴らしい人生だったと伝えてくれ)」だったと言われています。

遺作になる「哲学探究」は、実は彼が死去してから2年も経った後に、ようやく出版されることとなったのでした。

彼の著書で生前に出版されたのは、「論理哲学論考(論考)」一冊だけで、他は全て死後に出版になっています。