スピノザといえば、その思想は代表的な汎神論といわれています。汎神論とは「神=世界そのもの」という考え方。当時は過激と批判されたこの思想も、現代に通じる点があります。

当ページではバールーフ・デ・スピノザについて「汎神論」や『エチカ』についても詳しく解説します。

バールーフ・デ・スピノザとは

スピノザ – 参照:Wikipedia

17世紀オランダの合理主義哲学者

フルネームは、バールーフ・デ・スピノザ。オランダの合理主義的汎神論の代表的な思想家です。

スピノザの先駆者はデカルト

スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり」と語ったデカルト。推論の形をとってはいますが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚になります。

懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出され、これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する」と解釈しています。

汎神論の思想で現代哲学に大きな影響を与えた

汎神論とは

「汎神論」とは、端的に言えばありとあらゆるものが神であるという思想です。スピノザの哲学の原点は「神は無限である」という考え方にあります。

神は絶対的な存在であれば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないのだから、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本です。

すべてが神の中にあり、すべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということ。スピノザは神を自然と同一視した「神即自然(かみそくしぜん)」という考え方を持っていました。

このような神の概念は、意志を持って人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。よって教会権力が政治権力に勝るとも劣らぬ力を持っていた17世紀において、スピノザの考え方は人々から強い非難に合いました。

影響を与えた思想家

スピノザの汎神論は後の哲学者に強い影響を与えました。

近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論であると評しています。

フランス現代思想のドゥルーズも、観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ―実践の哲学』などの研究書を刊行しています。

代表著作は『エチカ』

善悪の再定義

『エチカ』を直訳すると「倫理学」という意味になります。端的に言うと「人はどうやって生きればよいか」を問いた本であり、スピノザの死後に出版されました。

音楽を例にすると「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪く、聾の人には善くも悪しくもない」。すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はないという視点です。

その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だと考えることができます。

コナトゥス

すべての物には、自分を維持しようとする力「コナトゥス」があり、その力を強化し、促進してくれる物が善いとされます。精神は自己の有に固執しようと努力します。

この自己保存の努力が、精神と身体に関係すると、衝動に変化。衝動は人間の本質であり、したがって自己保存の努力が人間の本質になります。

衝動は意識にもたらされることで欲望となり、すなわち私たちが欲望するものが善となるとスピノザは結論付けます。

スピノザの哲学では、人間に命令を下したり、恩寵を配分したりする人格神がなく代わりに、自然そのものが全体として単一の神だとされています。

スピノザの生涯

幼少期

スピノザは、1632年アムステルダム生まれ。富裕なユダヤ人の貿易商の家庭で育ちました。幼少の頃より学問の才がありましたが、家業を手伝うために高等教育は受けませんでした。

青年期

ユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学び、カバラの神秘思想にも接しました。卒業後は医師のファン・デン・エンデンに就いてラテン語、自然学、幾何学およびデカルト新哲学を学び、しだいに異端的な西欧思想に傾斜していきます。

23歳のとき、「悪い意見と行動」のゆえにユダヤ教団から破門の宣告を受け、ユダヤ人社会から追放。追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行いました。

壮年期

1664年にオランダ共和派の有力者、ヨハン・デ・ウィットと親交を結びます。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていくことに。

この前後から代表作『エチカ』の執筆は進められていたものの、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなります。

『神学・政治論』の出版

1670年に匿名、版元も偽って『神学・政治論』を出版します。1672年にウィットが虐殺され、スピノザは生涯最大の動揺を示したといわれています。

『神学・政治論』が匿名で刊行されたのは、このような社会的背景があったためです。

晩年期

大学の哲学教授として招聘されるも固辞

1673年、ハイデルベルク大学の哲学教授として招聘されましたが、教育と研究とは両立しがたいという理由、また、哲学する自由が制限されるのを危惧しこれを固辞。

1674年には『神学・政治論』が禁書となりました。この影響で翌1675年に完成させた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』の出版も断念しました。

44歳で短い生涯を終える

スピノザには「レンズ磨きを生活の糧とし、余暇はひたすら思索に没頭した」という伝説があります。

しかし、たとえ孤独で簡素な生活を愛したとしても、スピノザは実際には当時の社会から孤立していたわけでも、また極貧にあえいでいたわけでもありませんでした。

スピノザは肺の病気を患い、1677年ハーグにて44歳で短い生涯を終えました。

『エチカ』は執筆に15年の歳月をかけたスピノザの思想の総括といわれていますが、スピノザの没後友人により1677年に刊行されています。

『知性改善論』、『国家論』、『エチカ』その他『ヘブライ語文法綱要』などとともに、没後に遺稿集として出版されました。