ジョン・ロックはルソーやホッブズと共に社会契約説を唱えた一人として知る人も多いでしょう。

しかし、その社会契約説は国の違いそれぞれ微妙に主張が異なります。なぜ、そのように違いが生まれたのか、またロックはどのような主義を抱えて社会契約説に至ったのかを見ていきましょう。

ジョン・ロックとは

ロックの肖像 – 参照:Wikipedia

ロックはイギリス経験論の父と呼ばれ、イギリス独自の思想を確立しました。 哲学のみでなく政治思想にも大きな影響をもたらしたロックの思想を彼の歴史と共に紐解いていきましょう。

ロックの社会契約説-公権力に対する抵抗権

ホッブズ、ロック、ルソーは社会契約説を唱えた人間として知られていますが、それぞれの説は異なっています。

社会契約説を語る上で欠かせないのが自然状態です。通常は社会が作られる前の人間の状態をさし尋ねることが多いですが、 ロックは人間は初めから社会生活を営むと考えて、政治社会の成立に注目しました。

ロックは人は間違いを犯す生き物でそれは争いを生むと考えます。争いを回避するため、人々の合意のもと国家をつくり、 立法権を最高の権力として統治者に信託します。統治者がこれを乱用することを防ぐため国民は抵抗権、革命権を持つべきだと主張しました。

経験主義

ロックはもともと人間に知性が備わっているとする生得論、合理論を否定し、知識は経験によって身につくと主張しました。

当時人間の理性には神によって知性が記されているのだとする考え方を持つ人がいたのです。 ロックは生まれた時の人間の心は文字の欠いた白紙であるとし、これを「タブラ・サ」と言う言葉で表現しました。

自由主義

ロックは自由主義の源流であるとも言われます。ロックの生きた時代は宗教的自由をもとめるイギリス市民と 宗教に非寛容な為政者との間で絶えず争いが起きていました。

こうした状況を憎むロックは、 国家権力は信仰が社会の秩序と平和を害さない限りにおいて、それに干渉すべきでないと主張しました.

幼少期から大学入学まで

ウェストミンスター・スクール – 参照:Wikipedia

革命前夜のイギリスに生まれる

ロックは1632年にイギリス、サマセット州のリントンという街に生まれました。 父親は祖父の代までの家業を捨てて弁護士になり、土地の治安判事書記を勤めていました。

両親ともに篤信なピューリタンで、ピューリタニズムの清潔で厳粛な雰囲気ののなかで幼年期を過ごしたようです。 ロックが生まれた時期はピューリタン革命のまさに前夜と言える時期で、彼の父親も議会軍の奇兵隊長として革命に参加しています。

ウェストミンスター・スクール

1646年、15歳でロックはウェストミンスター・スクールへ入学します。

当時学長であったリチャード・バスビの古典的な教育の方針に反感を持つロックですが他人の信仰に寛容なバスビの教えには深く感銘を受け、 宗教への不寛容が誤りであると自覚していきました。

ロックは大変優秀な学生で「小選抜」と呼ばれる激しい競争試験に合格して国王奨学生になり、 さらには「大選抜」にも合格したことでオックスフォード大学クライスト・チャーチ学寮への入学を果たしました。

オックスフォード大学時代

オックスフォード大学 – 参照:Wikipedia

医学と哲学を学んだ

1652年オックスフォード大学に入学後、友人リチャード・ロウアに誘われすぐに医学を学び出します。 ロックは近代医学を通して観察と実験という経験主義的手法に触れていきました。

思想家としてのロックの名声は名誉革命以後に生まれたもので、それ以前の彼は医者として知られた人でした。 この頃のロックの医学ノートにはデカルトなどの名前も現れており、ロックは医学を学びながら哲学に近づいていったのではないかと考えられています。

ロックは精力的に学び1558年修士号取得後、オックスフォード大学特別研究員に選ばれています。

大学教育への参加とその後

1660年ロックはクライスト・チャーチのギリシャ語教師に選ばれ、その後は修辞学教師や上級監察員として大学教育に携わりました。 その後、外交官秘書としてブランデルブルク選帝侯の居住地クレーフェへ赴任しています。

この仕事はあまり向かなかったようで、帰国後その手の仕事は断って大学で医学を学ぶ生活を送りました。

壮年期

シャフツベリ伯爵 – 参照:Wikipedia

アントニ・アシュリ=クーパーとの出会い

1666年の夏、オックスフォードを訪れたアントニー・アシュリ=クーパー(後のシャフツベリ伯爵)と知り合います。 二人は大いに意気投合し1667年ロックはアシュリ卿の侍医としてロンドンに移り、同年アシュリ邸に受け入れられました。

ロックはこの時期イギリス経済界の金利政策について利率の自由を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じた「寛容論」を書いたりと活発に行動しています・  ロックはアシュリを介して政治の実態にふれ、さらに著名な知識人達との関わりを持つことで自らの思想を成長させていきました。

哲学の世界へ

1671年の春のある日にロックは友人達との討議していたところ、様々な難問の前に途方に暮れてしまいます。 この時、ロックは自分の知性について考えること、すなわち哲学することに足を踏み入れたのです。

この年からロックは「人間知性論」の執筆を開始し1687年にようやく最終原稿を書き上げています。 このときのことをロックは「読者への手紙」の中で語っています。

私の居間に五、六人の友人が集まって、本書とたいへんかけ離れた主題を論じ合っていたところ、四方八方から起こる難問のため、 友人達はたちまち途方にくれました。

私たちは自分を悩ます疑惑の解決に一歩も近づかずに、しばらく困惑していましたが、そのあげく、 わたしはふと、自分たちの道がまちがっていて、私たちは、その性質の研究を始める前に、自分たちの才能を調べ、 私たちの知性が取り扱うのに適した対象と適さない対象とを見る必要があるとおもいつきました。

 『人間知性論 読者への手紙』

人間知性論

1689年に出版された、ロックによる認識論の著作です。人間の知性、認識の構造を問題としていて、 ロックはこの著書の中で知性の限界を知ることで知性を用いれる対象を把握しようとします。

王権神授説の否定

1670年代はイギリス史にとって再度、革命が兆し始めた時期です。 シャフツベリ伯に叙せられたアシュリは、イギリスをカトリック教の国家にすべく画策する国王チャールズ二世と激しく対立します。

「統治論二篇」はこうした情勢を踏まえて書かれ、1680年に再刊されたフィルマーの「家父長論」という王権神授説を説いた本を、 全面的に反論するものとして執筆されました。

統治論二篇

1690年、ロックによって著された二篇の論文からなる政治哲学書です。王権神授説を否定しロックの社会契約論を展開しています。 アメリカ独立宣言やフランス革命にも大きな影響をもたらしました。

オランダ亡命

王とシャフツベリ伯の政争は激化の一途を辿り、1682年シャフツベリは反逆罪に問われオランダに亡命します。

それに伴いロックの身辺も危うくなり、翌年には彼もオランダに亡命しています。 シャフツベリはオランダにて亡くなり、ロックは1689年まで地下での偽名生活を余儀なくされました。

栄光の晩年

イングランド銀行本店 – 参照:Wikipedia

著作を数々と出版

名誉革命が成って、近代市民社会の最初と姿が生まれます。

ロックの思想はおおいに実現し彼の著作は次々に出版されていきました。 1689年に「寛容についての書簡」が発売されると、翌年には「人間知性論」と「統治論二篇」が市場に出ました。

寛容についての書簡

後世に大きな影響を与えた政教分離の原典です。信仰の異なる人々に対する寛容はなぜ守られるべきかなどの内容を扱いました。

社会の表舞台を離れるも精力的に活動した

まさに時の人となったロックですが表舞台での活躍はのぞまず、閑職について首都から遠いオーツのマサム邸での暮らしました。

1649年、イングランド銀行創設に参加したことと、翌年出版取締法の廃止に尽力し表現の自由の獲得に貢献したことは、 この時期のロックの際立った功績です。 1704年10月28日、ロックは静かに息を引き取ったといいます。