三木清は日本を代表する哲学者で「日本の三哲」といわれています。しかし、その人生は、二度も妻を亡くし、自身も二度逮捕され、最期は獄死するという壮絶なものでした。

三木清とは、どんな人物だったのでしょう。詳しく解説していますので是非閲覧してみてください。

三木清とは

三木清 – 参照:Wikipedia

今も読まれる「人生論ノート」

三木清といえば「人生論ノート」の著者として有名です。この著書は、三木の死後に出版されたものですが、戦後、学問に飢えた若者が次々と手に取り、ベストセラーになりました。

そして、その思想は、今の私達の時代にも生きており、通算100刷を超える大ロングセラーになっています。

日本で初めて文庫本を発案

三木はドイツに留学しており、帰国後、教授をしながら岩波書店で編集に携わっていました。そして、ドイツのレクラム文庫を模範にして、文庫本というスタイルを発案します。

1927年、日本初の文庫本が出版されました.今も岩波文庫の巻末には「読書子に記す-岩波文庫発刊に関して-」という文章が載せられていますが、その草稿は三木が書きました。

今日、多くの文庫本が出版され、著書を安価で手軽に手に取れるようになったのは、三木のおかげです。

生誕から大学まで

西田幾多郎(1943年2月撮影) – 参照:Wikipedia

兵庫県で生まれる

1897年、三木は、兵庫県揖保郡平井村(現・たつの市揖西町)に生まれました。長男でしたが、後に4人の弟、3人の妹ができて大家族になりました。家は農家で、祖父の代に大きな財を成し、裕福でした。

第一高等学校から京大へ

三木は田舎から単身上京し、東大教養学部の前身である第一高等学校に入学しました。高校時代、哲学者・西田幾多郎の「善の研究」に強く心を動かされ、彼の元で学ぼうと決意します。

三木は、西田のいる、京大の前身である京都帝国大学に進学しました。当時は、東大の前身である第一高等学校から、京大へ行くことは極めて異例でした。三木の強い意志が感じられます。

ドイツ留学からフランスへ

マルティン・ハイデッガー – 参照:Wikipedia

ドイツで学んだ日々

三木は大変優秀で、大学院に進学しながら、龍谷大学で教師をしていました。そんな三木の将来を期待し、岩波書店の支援で、ドイツに留学することになりました。

初めはハイリンヒ・リッケルトの元で学んでいましたが、三木は日本でリッケルトの著書は原典で全て読んでおり、翌年すぐにマールブルク大学へ移りました。ここで、マルティン・ハイデッガーに師事し、新カント派の立場から歴史哲学を学びました。

フランスでパスカルの研究

1924年、三木は、フランスのパリに移住します。ここで、哲学者・パスカルの「パンセ」を研究します。帰国後、「パスカルに於ける人間の研究」を発表しましたが、この本は全く売れませんでした。

三木は、専門家の間では、パスカルの研究に関しては大変評価されましたが、パスカルも三木も、日本ではまだまだ名前が知られていなかったのです。

結婚そして逮捕

結婚した東畑喜美子の兄、東畑精一 – 参照:Wikipedia

多難を覚悟した結婚

三木は帰国すると、法政大学の哲学部の教授となりました。そして、1929年、32歳の時、農業経済学者・東畑精一の妹・東畑喜美子という女性と結婚します。

この結婚にあたって、三木は「特殊な運命が私を待っているように思うが、それを承知の上でよろしければ」といったそうです。

妻になる喜美子も、知人に手紙で「私は多難を免れないだろう」と書いたそうで、二人な多難を覚悟したうえで、結婚しました。そして、この二人の予想通り、翌年から数々の難が襲い掛かりました。

逮捕により失職

1930年、三木は、日本共産党に資金提供したという理由で逮捕されてしまいました。喜美子はこのとき身籠っており、三木が刑務所にいる間に一人出産しました。

数か月で出所しましたが、三木は有罪になり、二度と公で教職に就くことが出来なくなってしまいました。教授の職を辞さなくてはならなくなった三木は、多方面で活躍を始めます。

妻の死

結婚から7年で、喜美子は亡くなってしまいます。三木は一周忌で、「影なき影」という追悼文集を発表しました。この中の「幼き者の為に」で、まだ6歳の娘のために、亡き母を回想した想いを綴りました。

その愛情あふれる文章には、普段三木と対立していた人たちも涙を流したといいます。また、三木は1938年から1941年にかけて、一般向けに哲学のエッセイを書かないかと言われ、雑誌「文学界」に、断続的にエッセイを載せていました。

戦争が終わると、このエッセイがまとめられ「人生論ノート」として出版されました。

二度目の結婚

1939年、亡き妻の実家である、東畑家の勧めで、小林いと子と再婚しました。しかし、いと子も、わずか4年で、ガンで亡くなってしまいました。

三木は、この結婚に関して、結婚したことも、亡くなったことも、ほとんどの人に知らせていなかったそうです。そして、この妻の死は、翌年、悲劇を生むことになってしまいます。

獄死から「人生論ノート」の出版

旧豊多摩刑務所 – 参照:Wikipedia

二度目の逮捕

三木は終戦間際、釈放中に逃走した友人を家に泊めました。このことで三木は、治安維持法で再び逮捕されてしまいます。重い罪ではなかったため、すぐに釈放される見込みでした。

しかし、妻は亡くなっており、引き受け人がおらず、釈放が難航してしまいました。周囲の人も、逮捕されていることに気が付かず、終戦をむかえても、身元引受人は誰もいませんでした。

悲劇の死

三木が収監されていたのは豊多摩刑務所でした。この刑務所は、衛生状態が劣悪でした。三木に渡された毛布は疥癬患者が使ったもので、消毒されていませんでした。

三木は疥癬を患い、悪化から腎臓病になり、亡くなってしまいました。三木の獄死に、当時のGHQは大変ショックを受け、政府に直ちに治安維持法を撤廃するよう命じました。

皮肉なことに、三木の死がきっかけで、たくさんの政治犯が解放されることになったのです。

幸福に重きをおいた「人生論ノート」

1947年、「人生論ノート」が刊行されました。「人生論ノート」は、人間が生きる上で、必ず直面する身近な問題について書かれています。

死や孤独など、23項目ある中で、三木が最も重要視したのは、幸福についてでした。三木は、幸福そのものが徳であるとし、人々に幸福の重要性を説きました。

三木の死後、この「人生論ノート」は三木の発案である文庫本として出版され、多くの人々が買い求めました。そして、戦後の混乱と落胆の中、人々の心の灯となったのです。

まず、自分自身が幸福であること

愛する者の為に死ぬことは幸福ではないとし、幸福だからこそ、愛する者の為に死ぬ力を持ったのだとしました。

国家のために命を捧げるのが美徳とされた時代に、非常に勇気のいった言葉だったでしょう。

幸福は人格

幸福は人それぞれオリジナルなもので、捨て去ることのできない、命と同じように自分と一体になっているものだと記しています。

他人の幸福と自分の幸福が必ずしも一致するわけではないので、自分で幸福を追求する必要性があるということです。

幸福と成功は別物

幸福とは、成功することではないとしています。成功とは過程のことで、その結果、幸福かどうかは本人しか分からないとし、三木は、成功=幸福と捉えることから間違いが生じていると考えました。