当ページでは、キルケゴールについて紹介しています。セーレン・キルケゴール(1813年~1855年)は、デンマークの哲学者で、実存哲学の創始者とされています。彼の遺した思想は、ハイデガー、サルトル、カミュなど後世の著名な哲学者達に大きな影響を与えました。

ここでは彼の人生を追いながら、彼の提唱した「実存主義」がどのようなものなのか、そして著作のタイトルでもある有名な「死にいたる病」というキーワードも探っていきます。

キルケゴールとは

1840年のスケッチ – 参照:Wikipedia

進行はわし、ソクラテスじゃ。今日来てもらったのはキルケゴールじゃ。まずは簡単に自己紹介を頼むぞい。

はじめまして、キルケゴールです。見ておわかりかもしれませんが、私は病弱でせむしでの陰気な男なんです。嫌われ者でしたし・・・裕福な家には生まれましたが、幸福な人生を送ったとは言えません。

私の唱えた実存主義は、私の人生における苦悩体験から生まれたものと言ってもいいでしょう。

わしも人からずいぶん嫌われておったな・・・

しかし、深く思想するのに孤独は必要じゃ。真理は人生の苦悩の中から生まれるとも言えよう。

して、その苦悩から生まれた実存主義とはいかなる考えじゃ?

私の考えた実存主義とは、人間をひとくくりに考えるのではなく、今、存在している一人一人がどうあるべきかを焦点にしたものです。

ほう。確か、当時の哲学は、存在を抽象的、客観的にとらえる考えが主流じゃったのう。お主の考え方はどう違うのじゃ?

「私」という個人を例にしてみましょう。

「私」は、具体的な出来事で悩んだり、絶望したりします。抽象的思考で人間をひとくくりにしては、私が抱く個別の不安や苦悩を捉えることは出来ません。

私は観念としての人間より、自己がどうあるべきかを説くべきと思いました。

非常に興味がわいてきたぞい!お主の苦悩の人生も含めて、いろいろ聞かせてくれい。

実存主義の祖

キルケゴールの生きた時代は、産業革命によって機械化が進み、人々は豊かになっていました。反面、経済の成長ばかりに目が向けられ、人々は歯車のように代替のきく存在として、軽んじられるようになりました。

キルケゴールは、個性を失い時代に流されていく大衆に疑問を感じ、これまでの「人間とはどういうものか」という、人間をひとくくりにする思想を否定します。そして今ここに存在する「一人一人のあるべき姿」に焦点を当てました。

この思想を「実存主義」といい、その礎を築いたことから、実存主義の祖と言われています。

二つの存在がもたらした影響

キルケゴールの思想には、父の存在と婚約者の存在が大きく影響しています。

詳細はこの後述べますが、父が犯した罪はキルケゴールに大変なショックを与えました。また、相思相愛であった婚約者レギーネと婚約破棄に至った事もキルケゴールの思想に大きく影響しています。

この2人との関わりはキルケゴールの中に大きな苦悩を生み、それが個人に焦点を向けるという考えの出発点となります。

生誕から大学まで

コペンハーゲン大学 – 参照:Wikipedia

お主の時代の哲学はキリスト教との関わりがかなり密接なようじゃが、お主もキリスト教の影響を受け取ておるのか?

そうですね。父は熱心なクリスチャンで、私が成長したら牧師にするつもりでした。私自身、牧師になる為に勉強しておりました。神への信仰が私の哲学の根底にあります。

お主は神の存在を肯定しておるのじゃな。

デンマークのコペンハーゲンで生まれる

1813年、キルケゴールは、デンマークのコペンハーゲンに7人兄弟の末子として生まれました。病弱で感受性が強く、一人で過ごすことが多かったようです。後年の研究では身体に障害があったとも言われています。父は引退した毛織物商であり、家庭は大変裕福でした。

厳しすぎる父の教育

父親は非常に熱心なクリスチャンで、兄弟で一番賢いキルケゴールを牧師にしようと考えていました。キルケゴールが幼い頃から、父は彼に宗教の英才教育を施しますが、その厳しさは異様なものでした。

家には何の娯楽もなく、キルケゴールが外に出たいというと、父は幼い彼の手を引いて、室内を歩きながら、外の世界を語ったそうです。こうして、キルケゴールに想像力と思考力を付けさせました。

後年、キルケゴールが哲学者としてさまざまなことに思いを馳せるようになったのは、この父の教育が大きく影響していると思われます。また、キルケゴールは生涯にわたって強い信仰を貫きましたが、それも父の影響からでした。

コペンハーゲン大学へ入学

1830年、キルケゴールは、コペンハーゲン大学に入学します。キルケゴールを牧師にしたい父親の強い勧めからでした。そこで神学と哲学を修め、ベルリン大学へ留学もしました。

大地震と婚約破棄

さて、いよいよお主が苦悩に至った事件について語ってもらいたいのじゃが。

わかりました。聞いていて余り気分気分の良い話ではありませんが、私の哲学を語る上でとても重要な出来事ですから。

私の苦悩は22歳の時、余命わずかの父から犯した罪の告白を聞いたことから始まりました。

お父さんは何をしでかしたのじゃ。

神を冒涜する行為です。自分の境遇から神を呪ったり、あげくは使用人だった母を暴行して無理に妻にしたりしていたのです。

お父さんは熱心なキリスト教徒で、お主を牧師にしようとしていたんじゃろう?わしにはどうもわからんな。

信心深かったからこそ、罪を犯した父は、ずっと神からの罰を感じていたと思います。

私の兄弟のほとんどが若いうちに亡くなってしまったのも、神の与えた罰だと言っていましたし、私を牧師にしようとしたのは、神に赦されたかったからかもしれません。

その告白を聞いたお主はさぞショックだったろうな。

その時に私は全てに絶望したのだと思います。私も34歳までに死ぬのだと思いましたから。父の残した金で遊び放題、飲んだくれる生活を続け、苦悩を忘れようとしました。

その後、レギーネという女性に出会い、婚約までしたのですが・・・

レギーネと結婚しなかったのか?

婚約したものの、やはり私にはレギーネを幸せにすることが出来ないと思い、一方的に婚約を解消してしまいました。

愛していたからこそ別れたのです。それでも、生涯レギーネへの思いを忘れることは出来ず、誰とも結婚することはありませんでした。

お主、えらく身勝手じゃのう!かわいそうに、レギーネはさぞや傷ついたことじゃろう。

愛していたからこそ別れたのです。

それでも、レギーネへの思いを忘れることは出来ず、生涯、誰とも結婚することはありませんでした。

父の告白、呪われた一家

1835年、22歳になったキルケゴールは、大病を患った父からとんでもない罪の告白を受けます。

父は、幼い頃、ひどく貧しい農民で、飢えと寒さの余り神を呪ったといいます。その後、商売が成功して裕福な暮らしを手に入れたのですが、その俗世界での成功は神を呪った代償であると考えました。

また、父は、もう一つの大きな罪を告白します。父の最初の妻は、子供を産むことなく肺炎で亡くなってしまったのですが、その直後、あろうことか父は家政婦であったキルケゴールの母を強姦して妊娠させてしまった、と言うのです。

父は、これらの罪により神から罰を受けると確信していました。「私の子供達はみな、呪われており、34歳までに死ぬだろう」とキルケゴールに告げます。34歳とはキリストが磔にされた年齢です。実際にキルケゴールの兄弟はみな病弱で、7人のうち5人は、34歳までに亡くなっていました。

信頼していた父からの思いもよらぬ告白に、キルケゴールは大きなショックを受け、自身も長生きは出来ないだろうと思います。この時のことを、彼は著作の中で「大地震」と呼んでいます。

その後、キルケゴールはしばらく放蕩生活を送るようになってしまいます。毎晩のように酒場で飲みあかし、売春宿に通うほど荒れていたようです。反面、父のキリスト教への信仰心と罪への恐れはキルケゴールに引き継がれ、彼の思想に大きな影響をもたらしました。

愛した故の婚約破棄

1840年、キルケゴールは、レギーネという少女に出会います。

清純であったレギーネに好意を抱き、ついには求婚しますが、名家の令嬢であったレギーネの実家の猛反対にあいます。それでも諦めきれず、一途に想い続け、何とか婚約にこぎ着けました。

ところが、キルケゴールはその10か月後、一方的に婚約指輪を送り返し、婚約を破棄してしまいます。

なぜ、愛していたレギーネとの別れを選んだのか、様々な説がありますが、罪深い父を持つ自分の境遇に悩み、それにレギーネを巻き込みたくなかったからだとも言われています。

レギーネは1847年に、別の男性と結婚します。しかし、夫にキルケゴールの著作の購入を頼み、共に読んだりしていたようで、生涯キルケゴールを想い続けていたと考えられています。後年、キルケゴールはレギーネとの和解を求め、彼女の夫宛てに手紙をを送っていますが、それは封を開けられぬまま送り返されています。

「あれか、これか」そして神へ

『あれか、これか』の初版の表紙 – 参照:Wikipedia

婚約者と別れた後、お主はどうしていたのじゃ?

レギーネと別れ、私は著作活動において自分の心情を表すようになりました。

元々、日記を書き続けていたのですが、この頃から宗教や哲学について書き記し、世に発表するようになりました。

父の遺産があったので、書いた本が売れなくても困りませんでした(苦笑)。

お主は随分たくさんの著作を残したと聞いておる。本名以外の名で書いたものも多かったそうじゃな。

実存への三段階

1843年、キルケゴールは、「あれか、これか」という本を出します。その中で、かけがえのない一人一人のあり方=実存は、三段階を経て深まるとしました。

  1. 美的実存 「あれも、これも」享楽にふけるが、自分を見失って絶望する。
  2. 倫理的実存 「あれか、これか」奉仕など倫理的義務に生き、本当の自分を探すが、義務を果たしきれず絶望する。
  3. 宗教的実存 神の前に立ち、その声に聞き従う境地。

昔の思い出し方

キルケゴールは「反復」という著書で思い出し方をついて記しています。

  • 追憶 現在から過去へ意識が向かうこと
  • 反復 過去から現在へ意識が向かうこと

とし、追憶には後悔や現在の不満など後ろ向きな気持ちが含まれ、人を不幸にするとしました。逆に反復には、かつてあった生き生きとした心を取り戻し、人を幸せにするとしています。

この本は、かつての婚約者レギーネが、別の男性と婚約したことで書かれたと言われています。キルケゴールは、二度と戻れない幸せだった過去を、何度も反復していたのでしょう。

コルサール事件

レギーネと別れた後、キルケゴールはいくつかの著書を発表しましたが、田舎で牧師になり静かに暮らそうとも考えだしていました。しかし、1846年、大学の学友との諍いから、ゴシップ新聞「コルサール」に身体や服装を風刺した画と悪質な中傷記事を掲載されてしまいます。

新聞を見た人々は、キルケゴールの姿を見て指を指し、嘲笑しました。彼は社会からつまはじきにされ、孤独な存在となります。

この事件をきっかけに、彼は書かれたことを鵜呑みにする無責任な大衆に対しての批判を強めます。また、その孤独は、一人のキリスト教徒としてどう神に向き合うべきを彼に考えさせ、その思想は後期のキルケゴールの著作に現れています。

「死に至る病」の執筆

「ラザロの蘇生」(画:フアン・デ・フランデス) – 参照:Wikipedia

わしも人からは随分嫌われたりしたものじゃが、それは自分であえてそうしているところがあった。お主の場合は、何も知らない大衆からも攻撃されてちとかわいそうじゃのう。

いつの時代でも、大衆というのは無責任ですからね。悪質な新聞や週刊誌の記事が事実でなかったとしても、大衆はそれを鵜呑みにして疑おうともしない。

この事があって、私はさらに絶望を感じ、より自己がどうあるべきかが重要であると認識しました。

現代でもテレビや新聞に載った事を信じ込んで、自分の意見を持てない人たちが多いそうじゃ。お主の思想は、現代人にも必要かもしれんな。

「死に至る病」とは絶望である

1849年キルケゴールは「死に至る病」を執筆しました。

この著書でキルケゴールは、絶望について深く掘り下げました。強烈なタイトルの通り、キルケゴールが、絶望をいかに深刻な問題と考えていたかが分かります。

また、信心深いキルケゴールは、絶望から脱するために必要なのは、キリスト教の信仰だとしています。

絶望の種類

  • 無限性の絶望 空想ばかりで、現実から逃避する絶望
  • 有限性の絶望 現実の中で、他人と同じようにふるまい、自分自身を忘れる絶望
  • 可能性の絶望 自分の可能性ばかりに目を向け、現在の自分自身から目を背ける絶望
  • 必然性の絶望 持って生まれた容姿や環境などにとらわれ、あるべき自分を失う絶望

「死に至る病」から救われるには

キルケゴールは、絶望から救われるには、ただ一人=単独者として神の前に立つことを説いています。

人間は、神に認められた存在であり、神は必ず本来の自分へ導いてくれると考えました。神の声に耳を傾け、有限-無限、可能性-必然性のバランスを取ることで、絶望から解放されるとしています。

何にも左右されず、誰からも認められなくても、神が認めた自分自身が、本来の自分に他ならないとしました。

ちょっとトリビア~キルケゴールとコーヒー

キルケゴールのコーヒーの入れ方は独特でした。山のような砂糖をカップに入れ、ブラックコーヒーを注ぎ、砂糖を溶かして飲んだそうです。また、様々なコーヒーカップを50個も持っていたそうです。

「とにかく、私はコーヒーを高く評価している」と日記の中に書いています。

デンマーク教会への批判~そして最後

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか (ポール・ゴーギャン画)- 参照:Wikipedia

お主の考えは、神と己と、というところに行き着くようじゃな。哲学というより宗教観に思える。

そうかもしれません。

私はありのままの私自身を肯定したかったのだと思います。

私にとっての真理とは、己がどう在るか、であり、神に正しく向き合うことで己の絶望から救われる、ということです。

神の前の単独者

キルケゴールの批判は、デンマーク教会のキリスト教の規正の制度や姿勢にも向きました。キルケゴールは、神の前に立つには単独者であるべきと説き、正統な信仰を捨てたとして国教会を激しく攻撃し、協会を批判する小冊子の原稿を書いていました。

孤高の死

キルケゴールは孤独の中、批判を続けていましたが、1855年10月2日、突然路上で倒れてしまいます。病院へと運ばれましたが、一月後の11月11日、この世を去ってしまいました。享年42歳という若さでした。

キルケゴールは自分の遺産の相続人を、かつての婚約者であるレギーネにしていました。しかし、莫大な父の遺産は、著作のために使い果たされ、墓石を買う程度しか残っていなかったそうです。

キェルケゴールは遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」と指定していました。レギーネは遺産の相続は断りましたが、遺稿の引き取りには応じました。かつて封をしたまま送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っています。

レギーネ及び彼女の親友でキルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンらの努力によって、その遺稿は後世に伝えられることになりました。

キルケゴールの名言

人生は、後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。

人生の初期において最大の危険は、リスクを犯さないことにある。

心の純粋さとは、ひとつのものを望むことである。

自らの挫折の中に信仰を持つ者は、自らの勝利を見出す。

人間は思想を隠すためでなく、思想を持ってないことを隠すために語ることを覚えた。

孤独とは生命の要求である。