カント。哲学に興味を持つものであれば誰しも名前を聞いた事がある程、哲学史には重要な人物です。しかし、そのカントが主張する哲学を理解できている方は多くありません。なぜでしょうか。
それは、カントの批判哲学に関係します。批判哲学はとにかく難解な著書であるからです。カント哲学を理解しようとして多くの方が挫折してきました。
このページでは、カントの批判哲学について、またカントとはどんな人物であったのかを詳しく解説していきますので是非ご覧下さい。
イマヌエル・カントとは
進行はわし、ソクラテスじゃ!今日のゲストはカント!
お主はどの様な事を研究し評価されたのじゃ?
はい、私は著書が高く評価されたのですが、代表的なのは「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」という名目の批判書です!
後は晩年に書いた戦争が起きずにすむ方法を考えて執筆した「永久平和のために」という本も評価されました!
ほう、「永久平和のために」はまだしも3つの批判書はとても難しそうじゃの!
どんな事を主張した本なんじゃ?
一言で言うと、観念論的視点で研究を重ねてその成果を著書にまとめました!
簡単に言うと人間は、五感で感じた経験と頭で考えた合理を合わせる事で初めて物事を認識できると言う事です!この様な考えを観念論と称して研究しました!
「哲学の歴史はすべてカントに流れ込み、その後はすべてカントから流れ出た」といわれるほど、イマヌエル・カントは哲学史に名を残しました。
カントの思想は難解ですが、大変奥深く、人々を惹きつけています。今も多くの人が研究しており、我が国でも、「日本カント協会」というものが存在しています。
批判主義の確立
カントの著書で有名なのは三批判書といわれている「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」です。
最近では、批判という言葉は非難と混同されがちであり、相手の間違いを責めるような印象を受ける人もいるでしょう。しかし実際には、よく調べ、判断するという意味です。
カントは、自分の打ち立てた認識に関する説に照らし合わせ、様々なことを一から洗い出し、よく吟味しました。このような方法をとる哲学者を批判主義といい、カントの死後も多くの哲学者がこの立場をとりました。
国際的連合機関の必要性を提唱
カントは晩年、「永久平和のために」という世界平和についての著書を出しました。その中で、当時はまだ誰も構想していなかっただろう「国際連合機関」の必要性を提唱します。
時を越え、1920年の国際連盟、1945年の国際連合の発足はカントの思想が基になっているとされています。1795年のこの著書が、今の私達の平和を守る機関の礎になっているのは、非常に興味深いことです。
生誕から大学まで
ドイツのプロイセン王国で生まれる
哲学を志すものは比較的裕福な家庭で生まれる事が多いんじゃがお主は貧しい家庭だったんじゃのう。
はい。ですが、両親の教えで勤勉である事の大事さを伝えられていたのでよく勉強に励みました!
カントは1724年に東プロイセンの首都であるケーニヒスベルクに四男として生まれました。父親は真面目な馬具職人で、母親は感性豊かで子供たちに惜しげもなく愛情を注ぎましたが、暮らしは大変貧しかったようです。
両親ともルター派のキリスト教信者で、敬虔主義を信仰していました。そんな両親は、カントに勤勉、正直などを幼少期から教え、後々のカントの性格に大きな影響を与えました。
カントは生まれつきいわゆる「せむし(背骨がかがまって弓なりに曲がる病気)」だったようで、体も丈夫ではありませんでした。そんな中でも、カントは静かに聖書を読み、信仰を深めました。
フリードリヒ校時代
当時、どの様な学校に通ったんじゃ?
教会の牧師に勧められてフリードリヒ校に進学する事になったんですが、校則がとにかく厳しくて大変な思い出しか残っていません…
母親と共にキリスト教の集会に参加していたカントは、牧師から才能を認められ、将来の大学進学を勧められます。そのために敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校へ通うよう提案され、両親は喜んでカントを入学させました。
カントは8歳から16歳までフリードリヒ校で過ごし、ラテン語で哲学や宗教を学びました。フリードリヒ校は規則が大変厳しく、カントは生涯、学校時代の思い出を懐かしむことはなかったそうです。
奴隷のようだったと語っており、のちに厳格に生徒を縛る教育方針を否定しています。また、13歳の時に母親が他界してしまいます。一家は貧しいうえに身の回りのことまでやらなくてはならず、ますます苦しい生活になりました。
ケーニヒスベルク大学へ
お主は元々神学を志していたのじゃな!なぜ今の様な哲学の方の道へ進む事になったんじゃ?
当時は、ニュートンなどの活躍によって神学より自然学が大きな発展を迎えていたんです!興味もそちらの方により向きました!
自然学というと哲学と離れている様な感じがしますが、自然学も歴とした哲学ですからね!
1740年、16歳でケーニヒスベルク大学へ進みました。神学を志していましたが、自然学(自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問)に興味が向き、その研究に熱意を注ぎました。
当時はニュートンらの活躍で、自然学が発展を遂げるさなかでした。カントはニュートンやライプニッツを研究し、在学中に「活力測定考」という論文を書きましたが、評価されることはありませんでした。
父の死による困窮
家庭教師をしながら勉学に励む
母に続き父までも亡くなってしまったのか…
本当に大変な生活を過ごしておるのう。
はい、この頃は本当に大変でした。お金が無くて大学も辞めることになってしまいましたし…
ただ、勉学は辞めてはいけないと思って継続してました!
カントは22歳の時、父親をも亡くしてしまいます。それまでもカントは、友人に勉強を教え、小銭を貰って、学費の足しにしていたほど貧しい暮らしをしていました。
父の死で稼ぎ手がいなくなり、カントは大学を辞めることを余儀なくされました。それからカントは、7年ほど、郊外の複数の家で家庭教師をして生計を立てる、苦しい生活を送りました。
しかし、カントは学問への情熱を捨てずに、ケーニヒスベルク大学へ論文を提出し、修士学位を取得します。ブランクのある中、カントの論文は、非常に輪郭がはっきりしたもので、教授たちの賛同を得ました。
家庭教師時代は、苦しい生活ではあったものの、カントは読書や思索にふける時間を多く持っていたとも考えられています。
大学私講師から教授へ
お主の勤勉な姿勢が大学教授に招かれる結果になったのじゃのう!
更にお主は規則正しい生活はすごいそうじゃの?
はい、招いて頂いた故郷の大学には本当に感謝しています。生涯ケーニヒスベルクを過ごし続けましたね!
僕の1日の過ごし方は有名になっているみたいですね(笑)本当に毎日同じ過ごし方をし続けました!
1755年、カントはケーニヒスベルク大学の私講師となります。カントの講義は豊富な話題で学生の心をつかむ、魅力的なものでした。1770年、46歳で遂にケーニヒスベルク大学の正教授に任命されます。
このとき他大学からも声がかかりますが、カントは固辞しています。理由はケーニヒスベルクを離れたくなかったからとされています。カントは故郷を愛し、終生をケーニヒスベルクで過ごしました。
大変有名なエピソードとして、カントはとても規則正しい生活をしていました。朝は5時に起床し、紅茶を2杯飲みます。食事は一日一食昼食だけで、そのあとは、どんなに悪天候であろうが3時半に散歩にでかけました。
街の人々は散歩するカントを見て時計の針を合わせたそうです。カントはこのルーティンを生涯続けました。
「純粋理性批判」から始まった批判哲学
難解で有名な三批判書
これがあの難解と言われる批判哲学か!改めて簡単に説明してくれんかの?
まずは、純粋理性批判について教えとくれ!
さっきより、少し詳しく説明しますね!
純粋理性批判は、先程触れた観念論的な考えが書いてあります!五感で感じて、頭で考える事で初めて物事を認識するとういうものです。
この批判に補足すると、つまり実態が無く五感で感じる事ができないものは認識する事ができない事を意味します。私は、例えば霊といった様な認識できないものは議論しても答えが出ないので重ねる必要が無いと判断しました!
ほう、認識について批判しているのじゃな!何となく分かった!
では、実践理性批判とはどんな事が書かれているのじゃ?
実践理性批判はその名の通り実践理性について批判している本です!
実践理性とは、人間が本来持つ道徳的な考えの事を指します。
補足で言うと、メリットを考えて行動した時点でそれは実践理性から離れてしまいます。あくまで「〜すべき」を、損得抜いた状態で考えている事を実践理性と言うのです。
ほう、これは分かる様な、分からないような…
難しい題材じゃのう!では、最後の判断力批判とは?
確かに難しいですよね…
最後の判断力批判とは、人間の道徳が理想の状態になり神の元へ人間を近づけるための判断について批判しています。
批判哲学と言っていますが、批判はあくまで「よく調べる」と言うことです。否定とは違うのでそこはよく踏まえてください!
以上が私の批判哲学ですが、今回は簡単に触れた程度なのでまた詳しく説明する機会を設けますね!
カントは「近代哲学の祖」といわれ、哲学を語るうえで重要な人物だとされています。しかし、カントを代表する著書「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」は非常に難解なことで有名です。
学校の授業でも取り上げられる人物ですが、その難解さに匙を投げた人も多いでしょう。カントはこの三批判書で示した哲学とはどういったものだったのでしょうか。
観念論「純粋理性批判」
カントは、当時、認識についての考え方を二分していた経験論と合理論を統合しました。経験したものしか信じない経験論と、頭で考えたことはすべて存在するとした合理論を、統合したことは画期的なことでした。
- 五感で感じて経験することを感性(経験論)
- 頭でそれが何なのか考えることを悟性(合理論)
カントは、上記の様に定義付け、感性と悟性の働きで初めて物事を認識できるとし、これを観念論としました。
コペルニクスとは天文学者で、それまで地球の周りを太陽が回っていると考えられていたのに対し、太陽の周りを地球が回っているという地動説を唱えた人物です。
このように180度違った見方をすることを、カントはこの天文学者の名前を使い、コペルニクス的転回と呼びました。
カントが、コペルニクス的転回をするまで、対象である物事を認識するには、対象からの情報がすべてだと考えられていました。しかし、カントは、180度見方を変えます。
カントは対象となるこの世の物事は不確かなもので、人間が五感で感じ取り(感性)、頭で考え理解すること(悟性)で、認識されるとしました。
だまし絵の様に同じ物を見ても、見る人によって違ったものに見えるように、それぞれ見えている世界は違うと主張したのです。また、この原理では、形もなく経験もできないものに関しては、認識できないとしています。
例えば、「心霊」「魂」「宇宙の始まり」「神はいるのか」など、五感で感じられないものは認識できない(知りえない)としました。これは否定ではなく、議論を重ねても、永遠に知ることはできず答えも出ないと考える事です。
カントはこのように感性と悟性で認識する力を「理論理性」としました。
実践理性と道徳「実践理性批判」
実践理性とは、人類がみな持っている道徳的な考え方です。例えば、人を殺してはいけない、困っている人は助けないといけない、などです。カントは実践理性とは純粋なもので、欲望や衝動が働かないとしています。
- 定言命法 心の中の、純粋に~すべきだという道徳心からくる命令
- 仮言命法 心の中の、メリットがあるから~すべきだという条件のついた命令
実践理性とは、この定言命法からくる考えで、よく思われたいから親切にすべきだというような、不純な動機での行動を道徳的ではないとしました。真面目なカントの人柄が表れている考え方です。
自律こそ自由「判断力批判」
実践理性に従い行動することを、カントは自律としました。欲望や衝動に左右されることなく、自分の決めたことに従い生きることこそ、本当の自由であるとし、人々に自律の大切さを教えたのです。
理想とした「目的の王国」
理想と言う言葉が使われておるが、お主の理想とはどのようなものであったんじゃ?
私の理想は、全ての人が実践理性(道徳的な考え)を持ちお互いを尊重し合う事ができる社会です!この社会を「目的の王国」と呼びました!
実践理性を持った全ての人類は素晴らしいものであると考えたカントは、人間の尊さを実感しました。その人間は、みな大事に扱わねばならないとして、人間を手段として扱うのではなく、目的として扱うよう説きました。
カントは、お金目当ての結婚など、人間を手段として利用する生き方をやめ、すべての人が尊重しあえる社会を理想とし、それを「目的の王国」と呼びました。
「永久平和のために」晩年の情熱
思い描いた永久平和
この永久平和のためにはどんな内容の著書だったんじゃ?
この著書は、まず人間と国家の属性は同じで利己的な存在である事を認めた上で出発しています。
そのため、ルールが無いと争いが耐えないのは必然的なので国同士のルール、言わば国際連盟の必要性を説いてます!
そうか、この当時国際連盟は無かったからのう。早くからその必要性を説いておったのはすごい事じゃ!
カントは「永久平和のために」という本で世界平和を訴えました。ちょうどフランス革命が終わり、王政が崩壊したことで、新しい時代の幕開けを感じたのかもしれません。
カントは哲学者の立場から、人間の本性を定義し、どのようにすれば戦争が起きないかを記しています。
国際連合機関の必要性
カントは、人間も国家も、自然な状態では、自分のこと、自国のことしか考えないので、戦争をしてしまうといいます。しかし、人間が法の下で争いをしないように、国家にも守るべき法が必要だと考えました。
カントは、国をまとめる機関である国際連合機関を作り、国際的な法を作ることにより、争いがなくなるとしました。
暴力と非暴力
カントは人間も国家も利己的であるとしました。その一方で私達には知性があるともしています。人間や国家が利己的であることを踏まえ、知性があれば、平和的な解決ができると考えました。
それは、各国が利益を暴力で解決することではなく、非暴力で解決することを選ぶことです。
- 暴力による解決とは、武力で制圧し奪うこと。
- 非暴力による解決とは、商業などで互いが利益を受け取ること。
知性があれば、短期的に暴力的に解決するより、長期的に互いが利益を共有することが得であるということを理解できるとし、そのような法の整備が必要だと記しています。
カントは平和をもたらすのは「人間愛ではなく、法に対する尊重」だとし、どの国に対しても公平である法を作ることが大切だと主張しました。
衰えなかった熱意
お主の生涯を通して見てきたが、本当に勤勉じゃったのう!
批判哲学でも説きましたが、道徳的に生きて自立する事は大事ですからね!実行できたのは本当に良かったです!
カントは70歳を過ぎると自分でも思考力の衰えを感じていたようです。しかし、最後まで学問への熱意は衰えることなく、自然科学や物理学の難しい課題に力を注いでいました。
そんなカントも、次第に認知症の症状が現れ、あれほど規則正しかった生活も乱れがちになりました。最後の言葉は「これでよい」だったと伝えられおり、ワインを薄めたものを飲み静かに亡くなったそうです。
カントとは – まとめ
いかがでしょうか。カントとは一言で表すと「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を執筆し批判哲学を説いた人物です。批判哲学と言うと否定しているようですが、その実態は物事をよく吟味している事を表しています。
この批判哲学は人々が道徳的になり、尊重し合える社会を創り出すために考案された哲学です。更には、晩年の「永久平和のために」など戦争を起こさないための方法を考えた著書を執筆しています。
こうして見てみると、カントはとにかく勤勉、そして人々の平和や尊重を願ったとても素晴らしいと言える人物であったように思います。
今では、実際にカントの考えが用いられ国際連盟が発足している状況を見てもカントの考えは現代の私たちにも生きる部分があると思います。是非、カントの哲学に触れ自身の人生に役立てて見てください。