ドイツの哲学者ヘーゲル。ヘーゲルは西洋哲学に多くの影響を与えた人物としてトップクラスの知名度を誇りますが、同時にトップクラスの難解さで知られています。
「読み始めて数行でギブアップした」という人や、「頑張って最後まで読んだが、結局何を伝えたかったか分からなかった」といった人が多数出るほどの、難解さを誇ります。
ヘーゲルの名前だけ知っている、若しくは「弁証法」「ドイツ観念論」のいずれかのキーワードを聞いた事がある方はいるのでは無いでしょうか。
本記事では、近代ドイツ哲学を代表する哲学者であるヘーゲルが、どんな人物だったか?どんな功績があるか?について紹介します。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルとは
進行はわしソクラテスじゃ!ゲストはヘーゲル!お主はドイツ観念論を弁証法を用いて完成させたそうじゃな!
聞き慣れない言葉が多くて難しそうじゃのう…
初めまして!よろしくお願いします!
はい、ドイツ観念論を完成させました!確かに難しいですよね…
観念論とは、現実世界から離れ精神世界で物事の本質を探す考え方です。
簡単に言うと、当時国家と宗教が壮大な力を持っているのにも関わらずうまく機能していなかったんです。なので一旦現実から離れ本質的に考える事で法則を見つけ現実に当てはまればうまく機能するきっかけになると考え始まりました。
ほう、なるほどそう考えると少し分かるような気もするの〜
しかし、現実を離れると抽象的になってしまって一言で言い表すのが難しくなりそうじゃのう。
はい、さすがですね!
当時、ドイツで観念論は世界の仕組みを一言で言い表そうと主観的観念論、客観的観念論の大きく二つに立場が分かれていたんですがどちらも矛盾を持っていました。
そこで、私は弁証法を用いて更にドイツ観念論に新しい意見を示しました。この弁証法はソクラテスさんの問答法が元になっているんですよ!
ほう。問答法は相手の命題に対して全く真逆の質問をしていく事を繰り返す方法の事じゃがの。弁証法とどのように関わっているんじゃ?
弁証法も問答法と本質は大きく変わりません!
弁証法は、命題に対しての意見から矛盾を生まれたとしてもその矛盾によって否定して捨てるのではなく、その意見に矛盾がある事を踏まえた上で合わせ更に良い意見にしていく方法です!
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、18世紀から19世紀にかけて活躍したドイツの哲学者です。
ヘーゲルは一言でいうと、優秀なドイツの哲学者達が「観念論」を研究し、出した答えに矛盾を見つけ「弁証法」を用いて完成させた人物です。
ドイツ観念論の大成者
観念論は、とても抽象的な言葉であり論者によって主張が異なりまた日本語訳も表現が微妙に変わってくるため一言で正確に表わすことが難しい言葉です。
当時のドイツで言うと、現実世界から離れ、更に根本的な精神世界の原理や認識に物事の本質を探す考え方です。観念論は、18世紀末から19世紀半ばにかけて、ドイツで主流となりドイツ観念論と呼ばれました。
ヘーゲルは、主観的観念論、客観的観念論どちらも矛盾を抱えた論理であるとし、弁証法を用いて更なる論理に引き揚げ「絶対的観念論」と名称しました。この絶対的観念論によってドイツ観念論は完成に至ります。
弁証法とは
ここでは、とにかく噛み砕いて分かりやすく説明していきます。例題も用意しているのでチェックしてみましょう。
まず、ある命題に対して相反する意見を2つ用意します。それまでの論理学はその意見の矛盾を探し指摘するものでしたが、ただ矛盾を探して否定するだけではなく、ここで生まれた矛盾を理解した上で更なる意見を生むという方法です。
正の意見:天候は晴れの方がいい
反の意見:天候は雨の方がいい
合の意見:天候は、晴れだけでは水が枯渇し、雨だけでは光合成できず育たない。そのため、バランス良く晴れと雨が組み合わさるのが良い。
まず、正と反という形で意見を表していますが、正の意見が無条件に正しい事を意味している訳ではありません。ここで言う正とはあくまで表の意見であると認識して下さい。合の意見は正反二つの意見を合わせ引き上げた意見です。
正と反の二つの意見には、それぞれ穀物が育たなくなる矛盾を抱えています。つまり、どちらかの意見だけでは穀物が育つ事はありません。
弁証法の場合、ここで終了させるのではなく、この意見を合わせ引き上げる事で更なる意見に昇華させるのです。結果、この命題では、バランス良く組み合わさるのが一番良いという意見に昇華しました。
病気がちで書物を読み耽った幼少期
シュトゥットガルトに生まれる
お主は生まれは中流階級か。両親は優秀そうな家庭じゃのう〜
ええ、両親は学問の関心が高かったので良く学べる環境は用意されてたと思います。
ヘーゲルは、1770年8月27日に神聖ローマ帝国南西部に位置するシュヴァーベン地方ヴュルテンベルク公国のシュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)の中流家庭の長男として生まれました。
父のゲオルグ・ルートヴィヒは、収税局書記としてカール・オイゲン公に仕えており、母のマリア・マグダレーナは、民会の役員を務めるフロム家の出身で、信仰篤く教養豊かな女性でした。
書物を読み漁った幼少期
教育熱心だった母の影響もあり、子供時代は学問の環境に恵まれていました。5歳でラテン語学校に入り、文学や新聞、哲学などの書物を読み漁っていました。
またヘーゲルは、幼少期は非常に病気がちで、天然痘で生死の淵をさまよったこともありました。
ギムナジウムで学問を学び歴史意識が芽生える
ギムナジウムで過ごした生活はどうだったんじゃ?
とても充実していました!尊敬するレフラー先生という方がとても良く教えてくれて沢山学べました!
ヘーゲルは、7歳から18歳までの間、ギムナジウムにて学びました。ギムナジウムとは、ヨーロッパの中等教育機関のことで、日本でいう中高一貫教育に近いものになります。
ギムナジウムに進学したヘーゲルは、特にレフラーという先生を尊敬していました。ヘーゲルは8歳のころから先生の指導を受け始め、新約聖書やキケロ、ヘブライ語などを先生から教わりました。
また、ヘーゲルは大変な読書家であり、古典だけではなく歴史の教養においても優れていました。こうした姿勢が後に歴史哲学を反証する事に役立っていきました。
母と恩師レフラーとの別れ
ヘーゲルが13歳の時、母マリア・マグダレーナが42歳の若さで亡くなりました。15歳の時には、恩師であったレフラー先生も亡くなります。
二人はどちらも教育に対して熱心であり、意志を受け継いだ後のヘーゲルは学問に対して前向きな姿勢を崩す事なく成長していきました。
哲学者の影響を多く受けたデュービンゲン大学時代
ヘーゲル哲学の原点が育まれる
お主が後々、ドイツ観念論を完成させるための哲学の原形は大学で培ったのじゃな?
はい!友人のヘルダーリンやシェリングと関わって汎神論を皆で支持するようになりました!
汎神論は、世界は神が創出した一部という考え方です。絶対的な存在から派生していったという考え方が後に客観的観念論に繋がります!
ヘーゲルが進んだ神学院での生活は、とても厳しく窮屈でしたが、こうした生活の中で、詩人ヘルダーリンや哲学者シェリングと交友を結び、互いの思想に影響を与え合いました。
シェリングは首席で入学する程の秀才、一方のヘルダーリンは古代ギリシアに憧れを持ち精通しており、後のヘーゲルの哲学に大きく関わる事となります。
友人との交流の中で、「~にして全」という言葉を用いて3人は共通して汎神論の考えを持ちます。汎神論とは、世界を神が創出した物と区別せず、世界も神の一部とする考え方です。
カントの影響を受け理論を実践的に試みる
なぜお主はカントに影響を受け興味をもったんじゃ?
当時、ドイツはカントの哲学が主張され激しく熱狂していたんです!あとは、汎神論的な考えが観念論に通づると思って研究を始めました!
ヘーゲルは大学生活をおくる中でカントに興味を持つ事になります。当時カントは、1788年に「実践理性批判」を、1790年に「判断力批判」を公刊しており、批判哲学を提唱した間近の時でした。
一方でヘーゲルは、同時にキリスト教に対して反感を抱いていましたが神学院の学生であった事からキリスト教自体の否定は出来ず、自身の考えにキリスト教という例題を用いてカント哲学を研究する事にしました。
カント哲学とキリスト教の研究を進めた結果、「宗教と国家の分離」についてヘーゲルは意見の相違が生まれます。カントは、宗教と国家が密接に関わる事で権力が壮大となり、搾取や抑圧が生まれるので分離し力を分散する立場をとりました。
一方のヘーゲルは、人間は理性と感性を持っている事を前提に、理性と感性はどちらも欠けてならない存在としました。宗教は感性に働く存在であり、広く働きかけるためには国家と関わり力を集中させる事が重要と反対の意見を持ちました。
ヘーゲルとフランス革命
フランス革命か。大きな市民革命じゃのう。この革命はお主にどのような影響を与えたのじゃ?
最初は、私も規律に縛られていた事もあって革命で自由を主張する事を支持しました。
しかし、革命も箍が外れた事で大虐殺を招く事になります。そこから自由は必要であるが秩序も必要だという考えになりました!
1789年にフランス革命が勃発しました。ヘーゲルは啓蒙主義に影響を受けフランス革命を支持していました。バスティーユ襲撃が起こった1789年7月14日は、ヘーゲルの生涯にわたる記念日であり続けたほどです。
ヘーゲルは立憲君主制を擁護する様になりましたが、あくまで民主主義を支持していました。当時の王国は、名門貴族が脅迫や買収をする事によって議席を独占しており立法権の働きは失っていました。
つまり、立憲君主制を採用していた王国を擁護するのでは無く、理想的な立憲君主制を目指し擁護していました。
哲学者として自立したイェーナ大学講師時代
イェーナ大学の私講師となる
なぜ、お主は神学院にいたのにも関わらず哲学を志すようになったんじゃ?
フランス革命があった頃からキリスト教に疑問を持つようになったんです。
フランス革命も元々は、教会の汚職や土地、財産などを占有し過ぎていた事から始まっていますしね。
牧師になってキリスト教に沿っているだけでは物事の本質に辿り着くことはできないと考え哲学を志す事にしました!
ヘーゲルは23歳で大学を卒業しましたが、キリスト教への反感から牧師にはならず、学問を志し哲学者への道を歩む事となります。哲学者へ道を志しましたが、当然大学を卒業したばかりの青年が、大学の教職に就けるわけがありません。
そこで当初は、裕福な家庭の家庭教師で生計を立てながら哲学の研究を続けていました。数年過ごした後、父が亡くなり遺産を受け取ります。
哲学の研究も進み学者になれるだけの実績も手にした事からヘーゲルは父の遺産を元に家庭教師を辞め就職活動に専念しました。結果、ヘーゲルは31歳の時に友人シェリングも勤めていたイェーナ大学の私講師となりました。
順風満帆に大学講師を務める
当時のイェーナ大学は、優秀な学者や講師が集まりドイツの中心となる大学の一つでした。ヘーゲルは、「論理学」や「哲学入門」などの授業を担当し、またシェリングと共にカント哲学に対する研究も進めていきました。
ヘーゲルとシェリングは、イェーナ大学でも観念論の第一人者であったカントやフィヒテの研究を進めます。観念論に対してカントやフィヒテは、「世界は主観によって成り立っているという主張である主観的観念論」を支持していました。
しかし、シェリングやヘーゲルは、「世界は主観も客観も一つの主観的絶対者(いわゆる神の様な存在)から独立して今に至るのであり、全ては客観として捉える事ができるという客観的観念論」を支持しカントやフィヒテを批判します。
こうしてカントやフィヒテの批判を進めますが、この批判は殆どシェリングによるものでした。当時、ヘーゲルは歳下のシェリングを師匠と慕う様な関係であり、シェリングの出した答えに意見する様な事はありませんでした。
弁証法を用いた著書、「精神現象学」出版
この「精神現象学」という本はどのような内容だったんじゃ?
これは観念論について弁証法を用いて説明した初めての著書なんです!この時はまだ粗もあって完全なものでは無かったですが…
シェリングを師匠と慕っていたヘーゲルでしたが、共同に研究を進める中で次第に哲学の認識において相違が生じ亀裂ができていきました。
そしてヘーゲルは、1807年に「精神現象学」を出版します。この「精神現象学」は、観念論を弁証法を用いた初めての著書でした。この著書にはシェリングの主張を否定する内容もあり、ここからシェリングとの仲は完全に途絶えます。
ヘーゲルの弁証法をひと言で言い表すと、「矛盾から新しい考え方を生み出すプロセス」となります。
ヘーゲル弁証法とは
ヘーゲルの弁証法では、モノ(物事)やコト(命題)が否定し、新しくより高度なモノやコトへ再生成されるプロセスを、「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」「合(ジンテーゼ)」という言葉を用いることで、説明をしています。
ヘーゲルの弁証法は、次の三段階のプロセスとなります。
- 正(テーゼ)の提示
- 1と矛盾する反(アンチテーゼ)が提示される
- 1と2の矛盾を解決するジンテーゼが提示される
つまり、「テーゼ」→「アンチテーゼ」→「ジンテーゼ」の一連のプロセスの事を、ヘーゲル弁証法と言うのです。
「アウフヘーベン」は、直訳すると「止揚」「揚棄」となります。対立し合う2つの関係を、1つ上の次元へと引き上げることを表す言葉です。
弁証法のプロセスによって、望ましい状態に進むことを「アウフヘーベンする」と言います。
学校の運営、執筆活動を合わせて行う
イェーナ大学は閉鎖しギムナジウムの校長となる
イェーナ大学が閉鎖になってすぐに校長になるとはすごいのう〜
これは幸運に恵まれましたね!
当時、ギムナジウムは神学がメインであったのですが、良いタイミングで哲学と倫理学を盛り込む事が検討されていたみたいなんです!
ナポレオン軍の侵攻によって、イェーナ大学は閉鎖に追い込まれます。イェーナ大学閉鎖により職を失ったヘーゲルは、友人の紹介でギムナジウムの校長の職に就くことになりました。
ヘーゲルが校長に選ばれたのは、当時ギムナジウムがカリキュラムをフランス式の新人文主義教育へ編成し直そうとしており、伝統的な神学だけでなく、教養科目として哲学や論理学の授業も盛り込む目的があったと言われています。
そのため、ヘーゲルは校長として学校運営に携わる一方で、新しく盛り込まれた哲学や論理学も教えました。また同時に、授業で使う教科書や教材の執筆も行っていきました。
再び大学に戻り教鞭をとった晩年
「大論理学」で一躍有名に
お主が教科書目的で執筆した「大論理学」は大変ヒットしたそうじゃの!何が良かったんじゃ?
「大論理学」はとにかく題材が幅広くて法・道徳・宗教から始まって哲学や社会制度についても触れています。幅広いに加えしっかり詳しく説明していた事が大変評価されたみたいですね!
評価して頂いた事で念願の大学教授にもなる事ができたんです!
ヘーゲルは、1816年にギムナジウムで執筆した教科書が元となる「大論理学」を出版します。「大論理学」は、法・道徳・宗教から始まり哲学、更に社会制度や歴史についてまとめられた大作であり非常に高く評価されました。
この「大論理学」で有名になった事により、ヘーゲルはハイデルベルク大学へと招かれます。
「エンチクロペディー」でドイツ観念論を完成させる
この「エンチクロペディー」でドイツ観念論を完成させたんじゃな?
もう一度ドイツ観念論の完成に到るまでの道筋を教えてくれるかのう。
はい、まずドイツ観念論は、カントから始まりました。カントやカントを擁護するフィヒテの主張は、「世界は主体を元に成り立っている」という主観的観念論の立場であり、当時優位性を立てていました。
対して、私の友人シェリングは「世界は一つの絶対者から独立した存在で成り立っている事から主体とは言えない」と主観的観念論の矛盾を指摘し客観的観念論が優位になります。
しかし、私はシェリングの客観的観念論にも矛盾を見つけました。「絶対者は実在ではなく、頭の中の考えによって存在する。人の知識のレベルによって思い描く絶対者は異なってしまう。」
私は、主観的観念論、客観的観念論どちらも矛盾を抱えた存在であるためどちらかでは世界の在り方を説明する事はできないと考え弁証法を用いました。
結果、「世界は静止的ではなく、変動するもの」という答えに辿り着きました。この答えを私は「絶対的観念論」と名付けドイツ観念論を完成させました。
「エンチクロペディー」も「大論理学」同様に教科書が元となる著書であり、ハイデベルク大学の講義に使用するため刊行されました。意味はドイツ語で「百科事典」であり、あらゆる哲学や知に対して説明された超大作です。
この「エンチクロペディー」では、ドイツ観念論についても説明がなされておりこの著書によってドイツ観念論を完成させたと言われています。
ドイツ観念論の完成
観念論とは、現実世界から離れ、更に根本的な精神世界の原理や認識に物事の本質を探す考え方です。
当時、世界では国家と宗教が密接に関わり形骸化し人々にとって善いものでは無くなっていました。そのため、現実から離れ世界の在り方の法則を見つけ国家と宗教に当てはまれば善い方向へ進むと考えられたのです。
まず、ヘーゲル以前にドイツ観念論に関わってきた人物らの主張を紹介していきます。主体と客体をそれぞれ国家と宗教に当てはめて見ていきましょう。
カント | 世界は主体と客体という関係で成り立っているのだから分離させ考えるべき。 |
---|---|
フィヒテ | 世界は主体こそ全て。客体も全て一つの自我が重なったものに過ぎない。 |
カントは主体である国家と客体である宗教を分離させるという考え方。フィヒテは、国家も宗教も主体と捉える考え方。違いはありますが、どちらも主体に焦点をあて客体の存在を外す様に考えています。この立場を主観的観念論と言います。
シェリング | 主体も客体も絶対者(いわゆる神の様な存在)から独立した存在であるため、世界は客体によって成り立っている。 |
---|
一方のシェリングは、一つの神から全て独立した存在であるため主体ではなく、客体が集合し世界が成り立っているとカントやフィヒテを批判しました。この立場を客観的観念論といいます。
シェリングの批判によってドイツ観念論は客観的観念論側に優位性が生じますが、フィヒテに対してヘーゲルは更に批判していきます。
ヘーゲル | 絶対者という存在は実態が無いので人々の考えの中によってのみ現れる。しかし、人々の知のレベルによって絶対者は異ってしまう。この様に主観的観念論同様に客観的観念論も矛盾を抱えている。
つまり、世界は静止的な言葉で言い表す事ができず、変動するもの。これが主観的、客観的の主張を弁証法によってアウフーベンされた絶対的観念論である。 |
---|
ヘーゲルは、絶対者の存在は考える人の知のレベルによって異なるとフィヒテの矛盾をつきます。ヘーゲルはあくまで客観的観念論を擁護していましたが主観的観念論と同様に矛盾を抱えていると判断しました。
そこで主観的、客観的二つの矛盾を抱えた意見を元に弁証法を用いて更なる意見として引き揚げました。それが、「世界とは静止的ではなく、変動するもの。」です。これをヘーゲルは絶対的観念論としドイツ観念論を完成に至らせました。
最後の著書「法の哲学」
「法の哲学」が最後の著書か。この著書はどのような内容だったんじゃ?
この著書は、過激な学生運動を抑える事を目的に執筆した著書なんです!
当時、国が改革を進めていた事で反発し過激な運動をする学生が増えていたんです。私は改革に賛成派だったので政府は私に学生達の運動を鎮めるよう依頼しました。
その時に講義で使う著書として執筆したのが「法の哲学」です!内容も学生達を諭すための内容が盛り込まれていて生徒達を善い方向に導く事ができたと思います!
ヘーゲルは1821年に、最後の著書として「法の哲学」を出版しました。「法の哲学」は、過激派の学生に対して、ヘーゲルの持つ国家観や社会観を提示し善い方向へ導くために執筆された著書です。
当時、プロイセン王国はナポレオンに侵略され、改革を進めていました。ナポレオンを倒すためヨーロッパの国々と連合軍として加盟しており、倒した後も復興させるため連合関係は続いていました。
しかし、改革に対して賛辞を送る者もいれば酷評する者もいます。ヘーゲルはこの改革に対して支持していましたが、連合軍に加盟した事で王国が他の国々に乗っ取られると考えた国民を厳しく批判し反対運動を起こしていきました。
特に、ブルシェンシャフトと呼ばれる過激派の学生達による運動に王国の政府達は対応を迫られていました。学生が相手であったため政府の意向としては弾圧ではなく諭す事で対応を進めたいと考えていました。
そこで、賛成派であったヘーゲルをベルリン大学に招き講義させる事になりました。結果、ブルシェンシャフトへの対応は連合国代表であるオーストリア首相によって弾圧されてしまいますが、「方の哲学」を用いたヘーゲルの講義は大変人気があり諭された者も数多くいたそうです。
急逝
最後は、急だったんじゃのう…
ええ…
ちょうどコレラが流行してしまって私もかかってしまいました。かかってからはあっという間でしたね…
ただ歴史に残る偉業を成せたのでその点においては十分満足しています。
ヘーゲルは、その後も実績を積み重ねていき1829年にはベルリン大学総長に任命されることとなります。しかし、1831年夏にドイツではコレラが大流行し、各地に蔓延。
ベルリンでも流行したため、ヘーゲルは一旦避難をしたものの、秋の新学期にあたり、収束前にベルリンに戻り感染してしまいました。講義を行なっていた日から僅か数日で息を引き取ることとなりました。ヘーゲル61歳の時でした。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル – まとめ
いかがでしたでしょうか。ヘーゲルは一言でいうとドイツ観念論を弁証法を用いて完成させました。観念論という題材自体が非常に難解で読み解くのが非常に難しい人物であります。
しかし、観念論を読み解こうとすると難しいですが、ヘーゲルに至っては国家や宗教などが本来どうあるべきかを現実から離れて世界の仕組みとして考えたという事であれば少し分かりやすくなるのではないでしょうか。
難解でついつい読み解く事を諦めてしまった方もいるとは思いますが、今一度改めてヘーゲルの思想について触れてみてはいかがでしょうか。