ジークムント・フロイトとは

ジークムント・フロイトは一言で言うと、精神分析学の創始者です。

彼は83年という長い年月のなかで、神経症や無意識の研究、自由連想法や夢判断などのあらゆる症状や精神にかかわる物事を研究しました。

学術書『夢判断』を発表した

フロイトは、夢の内容が本人の精神状態と深く関係しており、今まで通説とされてきた「睡眠中の感覚の刺激」だけが夢を作り出すのではないことを研究しました。

彼が言うところによると、夢の素材は今までの記憶から無意識に選ばれており、夢を見るということは、本人の無意識による自己表現だと考えられるそうです。

『無意識』について学を深めた

フロイトは『夢』の研究にもあるように、自我では把握できない領域を『無意識』と呼び研究しました。彼の研究は彼が生きた時代から現代まで、多くの学者や哲学家の思想へも大きな影響を与えています。

また、抑圧や投影などの、さまざまな欲動に対して人間が見せる反応は『フロイトの防衛機制』と呼ばれていますが、これらはフロイトの病死後に、彼の娘が研究を整理して生まれた概念とされています。

ジークムント・フロイトの幼少期

1856年にフライベルクに生まれる

1856年にフロイトは、現在のチェコにあたる土地に産まれました。彼はユダヤ人の両親を持ち、出生時にはジークムントではなく、ジギスムントと名付けられました。彼がジークムントと名乗り始めたのは、大学在学中の21歳になってからのことでした。

オーストリア・ウィーンへ転居

フロイトがまだ3歳の頃に、家族はオーストリア・ウィーンへと引っ越します。

10歳になったフロイトは、ウィーンにあるシュペルル・ギムナジウムに入学することになります。

自然科学に傾倒した学生時代

ウィーン大学で自然科学を学ぶ

17歳になった1873年にフロイトはウィーン大学へ入学し、物理や医学について学びました。

このとき彼は、学内の生理学研究所に所属し、両生類や魚類などの水場に生息する生き物の脊髄神経細胞を研究しました。彼は400匹ものウナギを解剖したといい、その情熱には驚かされるものがありますよね。

医学分野でも活躍した

当時のフロイトは、ウナギやカエルの研究のほかに、脳性麻痺や失語症などの病気についての論文も執筆しました。彼は学生時代から、「心理活動を解明する」という大きな目標を掲げています。

25歳で学位を得たあとは、内科や皮膚科、神経科などで務めました。

コカインの研究に没頭する

フロイトは1884~6年のあいだ、コカインの研究に熱中していました。粘膜用の局所麻酔として利用する着想を得たのちに、眼科手術でそれを使用し、よい結果を収めました。その後フロイトは、コカインの臨床研究への導入を始めました。

コカインの危険性が指摘される

フロイトが研究を進める一方で、世界ではコカインの常習性や中毒性が相次いで指摘されるようになりました。コカイン使用のリスクが認知されるとともに、フロイトの治療は怪訝な目で見られるようになってしまいます。

精神分析に至るまで

パリでヒステリーについて学ぶ

フロイトは1度病院を辞め、パリへ留学しました。学んだ分野は催眠によるヒステリー症状の治療です。神経学者のジャン=マルタン・シャルコーが彼の恩師だったとして知られています。

フロイトは、精神分析療法でヒステリーを完治させるのではなく、一時的にその症状を緩和させることを目指していました。このフロイトの価値観が、のちの彼の『無意識』への研究に繋がることになります。

『男性のヒステリーについて』発表

これまでヒステリーは女性だけの病気とされており、フロイトが活動拠点を置くウィーンでもそのような、昔ながらの認識が根強く残っていました。

そんな中で、フロイトは自作の論文『男性のヒステリーについて』を発表します。この論文は、多くの有識者から反対され、シャルコーですら「フロイトを逸脱させた」と怒りを滲ませたそうです。

ヒステリー患者の治療をする

留学を終え本来の住まいへと帰国したフロイトは、ラートハウス通り七番地で開業しました。パリで恩師に学んだヒステリーの治療方法を実践するような形を取りました。

彼は多くの患者を診ながら、自身の治療方法の改良を繰り替えし、『自由連想法』と呼ばれる技法へと至りました。

『精神分析』治療法を用いた

フロイトが編み出した『自由連想法』は、最初に与えられた言葉から思い浮かんだ考えをどんどん芋づる式に連想していく発想方法で、『ブレインストーミング』とも言われています。

この連想を毎日繰り返すことにより、患者の過去を全て思い出させることができる、というのがフロイトの考えでした。この一連の治療法を『精神分析』と名付けます。

ヒステリーに対する発見

フロイトはさまざまなヒステリー患者を診るうちに、この症状の原因には、患者が幼少期に受けた虐待が考えられることを発表しました。今日でいう、PTSDや心的外傷と似ていますね。

ヒステリー患者が無意識に抑圧してしまった原因を思い出し、言葉にすることができれば症状が治まることにたどり着きます。

孤独や病気を抱えながら研究を続けた

ウィーンでの活躍

フロイトは父との死別や、自身の無神論者としての在り方から、多くの研究仲間と決別することになりました。また、心臓神経症や抑うつなども患っていたため、体調的にも優れない日々が続きます。

フロイトはユングらとともに『ウィーン精神分析協会』を開きました。

1908年には精神分析運動に対する反発も抑えがたいものとなり、オーストリア国内外では、精神分析を指示するものは学会での発言権を奪われることとなります。外部からも反発され、また仲間内でも不和状態となってしまいます。

フロイトのウィーン内での活躍はあまり成功したものとは言えませんでした。

『夢判断』出版

フロイトは、夢占いではなく、学術書としての『夢判断』を発刊しました。

今まで、夢というものは、予言や神託のようなものだと認識されていました。しかしフロイトは、夢というものは未来予知ではなく、本人の願望を映し出しているものだと考えました。

600部ほど印刷されたこの学術書は、彼の意には反して、完売には約8年の年月がかかるなど、思うような結果は得られませんでした。

『性に関する3つの論文』出版

フロイトは『夢判断』を出版した5年後に『性に関する3つの論文』を出版しました。

3つの論文のうち、『心理性的発達理論』では、子どもには5つの成長段階があることなどを紹介しています。しかし、このフロイトの論文は各所に衝撃を与え、さまざまな悪評を浴びせられる結果となってしまいました。

ユングとの決別

精神分析運動を進める上で、フロイトはユングとかなり近しい間柄でした。しかし、研究が進むにつれて、フロイトとユング間の『無意識』に対する考え方の違いなどが明らかになります。

次第に2人は距離を置くようになり、国際精神分析大会でのできごとが決定打となり絶縁しました。

ロンドンへ亡命

彼はその後も『自我とエス』や『幻想の未来』など多くの著作を発表しました。それらが奏功し、1931年にフロイトはウィーン医師協会の名誉会員に指名されることになりました。

しかし、その翌年になると、ナチスによるユダヤ人迫害が激化します。この頃1度袂を分かったユングが、フロイトに亡命の打診を送りましたが、彼は敵に恩義を作ることを嫌がり、拒否します。

その後もなかなか彼はウィーンを離れようとはしませんでした。しかし彼の研究仲間が彼を放っておくことを最後までしませんでした。フロイトは遂に慣れ親しんだウィーンを離れ、ロンドンへと足を向けました。

患者に分析療法を施す

ロンドンへ亡命を果たし、体調も1度落ち着いたフロイトは、患者への分析療法を再開しました。

ほかに自分自身がユダヤ人であることも背景にあったと考えられますが、ナチスによる激しい人種差別を見たフロイトは、なぜユダヤ人が迫害されるのかを改めて疑問視した『モーセと一神教』を発表しました。

83歳のとき末期がんで亡くなる

フロイトは、病に屈することなく力を振り絞って診療や研究を続けましたが、やがてガンが悪化し、手術さえ不可能の状態になってしまいます。フロイトは、最後まで鎮痛剤の使用を拒否したそうです。

その理由は、「苦痛の中で物事を考えるほうが、何も考えないことりよりもマシだから」だと言い、精神分析学者の威厳を感じさせますよね。そして、1939年の初秋に、83年の生涯に幕を下ろしました。

最後まで追求していた『精神分析概説』や『防衛過程における自我分裂』は未発刊に終わりました。