ジャン=ジャック・ルソー、18世紀にフランスで活躍した思想家です。歴史の授業では、馴染み深い人物なので皆さんも名前は聞いた事があると思います。
しかし、思想家や啓蒙主義、社会契約説など難しい単語が並びつい調べていて嫌になってしまう事もあるのではないでしょうか。
当ページでは、ルソーの思想を歴史に沿って分かりやすく説明していきます。勿論、ルソーに関わるキーワードもしっかり解説していきますので是非ご覧ください。
ジャン=ジャック・ルソーとは
進行はわし、ソクラテスじゃ!今日のゲストはジャン=ジャック・ルソーじゃ!では、簡単に自己紹介を頼むぞい。
初めまして、ルソーです!私は、啓蒙思想家で社会契約説を提唱した事が有名で教科書に載るようになりました!
啓蒙思想も社会契約説も中々聞きなれない言葉じゃのう。まず啓蒙思想とはどのような意味なんじゃ?
そうですよね、簡単に説明しますね!
私たちの考えでは、人間は皆共通して理性を持っていると思うのです。その理性で法則を理解する事はできると考えました。
それならば、私達が歴史を振り返り法則を見つける事ができれば人々を正しい道に導く事に繋がると考え活動していました。
私達のように考える事を啓蒙思想と言います!啓蒙とは人々を正しい知識へ導くという意味なんです!
ほう、なるほど!では何故に啓蒙思想家達は、社会契約説を唱えたのじゃ?そして社会契約説とはどんなものなのじゃ?
まず、社会契約説について説明しますね。社会契約説は、政府はあくまで国民の権利を守るための役割を全うする事を第一に存在しているという考え方です。
当たり前の事だと思うのですが、当時の政府は王国が支配していて権力を誇示し私利私欲の存在になっている背景もありました…
当時、私は搾取され続け不平等であった人々を救うため社会契約説を提唱を考えたのです!
社会契約説は人によって多少違いがありますが、私の場合は、国民が共通の利益を目指す事ができるような法律を作り、従う事の大事さを主張し続けていました!
ルソーは、フランスの啓蒙思想家です。社会契約説を提唱した人物として有名で、民主主義、国民主義に大きな影響を与えました。
啓蒙思想とは、人間は全て共通の理性を持っていると仮定しその理性が絶対的に正しい事を出発点に正しい自立を促す事を目指す思想のことです。
ルソーの社会契約説 – 一般意志による「法の支配」
社会契約説とは、分かりやすく言うと政府は私たち国民の合意によって生まれたもので政府の役割は私たちの権利を守ることである、とうい考え方です。
社会契約説の提唱者としてホッブズ、ロック、ルソーが有名ですが、それぞれ主張に違いがあります。
ルソーは、社会契約によって国民全員が自由で平等な一人の国民として政治に携わるとした上で、それぞれの私利私欲ではなく共通の利益を目指すものを「一般意志」と名付け、それに基いて法律を作り法律に従うべきだと主張しました。
フランス特権階級の教育のゆがみを批判
「エミール」と言う著書で、ルソーは教育論を語り当時のフランス教育を批判しました。
当時、フランス子供と大人は別のものとして考えられてはいませんでした。子供は「小さな大人」だったのです。ルソーはこの考え方を否定し「子供は大人ではない。子供は子供である」と言う立場をとりました。
教訓や体罰にたよらず危険から守らなければいけないと主張し教育には知識ではなく経験が重要だといいました。
不平等の起源
不平等の起源は「文明の発達」に対してルソーが提唱した言葉です。
文明を賛美する風潮の中でルソーはそれに警鐘をならしました。本来人間はみんな平等であったのに文明がもたらす富が不平等を作り出したと主張したのです。文明がもたらす負の側面をルソーのこの説は当時おおいに驚かれました。
幼少期から学会にデビューするまで
時計職人の家系に生まれ恵まれた家庭で学問触れ過ごした
お主は幼い頃から勉学に対して関心が高かったんじゃのう。
はい、父や叔母が面倒をよく見てくれて楽しく勉学に向かう事ができました!当時はよく読書もしていましたね!
ルソーは1712年にスイスのジュネーブ、グラン・リュ街に生まれます。ルソーは代々「時計師」を営んでおり、ルソーは中間的な職人階級といえる家庭で幼年期を過ごしました。
生後すぐに母親を亡くしますが、父方の叔母の養育を受け温和な父親のもとで読み書きを学びます。小説や歴史書などを好んで読み、後の思想の素地を養ったと言われています。
人生が一変、孤児同然となり寄宿学校へ
どうして突然孤児となってしまったんじゃ?
父が貴族と喧嘩してしまって逃亡せざるを得ない状況になってしまったんです…
私は、寄宿学校に入りましたが非常に理不尽な所で次第に非行に走るようになりました。
ルソーが10歳の頃、父親が元軍人である貴族と喧嘩し蒸発してしまいます。孤児同然となったルソーは寄宿学校へ入れられた後、彫金師の元へ徒弟奉公へ出されますが日常的な虐待により徐々に非行へと走るようになっていきます。
こうした不遇な状況下でも読書の習慣だけは続き、読書はルソーの心の拠り所になりました。
ヴァランス夫人との出会い
このヴァランス夫人とはどのような人物であったんじゃ?
とても聡明で美しくそして優しい女性でした。彼女は寄宿学校で恐怖し脱走していた私を迎え入れてくれました。
彼女は、結婚していましたが夫と仲が悪かったようで一時愛人関係にもなりました。
16歳の時、日常的な暴力に耐えきれなくなったルソーは奉公先からの脱走を決意し放浪生活をはじめます。各地を流れ歩いた後、ルソーはヴァランス夫人と出会い保護されました。
聡明で美しい夫人の元でルソーは哲学、幾何学、音楽など多分野に渡る膨大な書物を読破し教養をみにつけました。この時期についてルソーは晩年「生涯で最も幸福な時期」として回想しています。
壮年期、次々と著作を発表
不遇なパリ時代
この頃からお主は評価される著作を発表する様になったのじゃのう!きっかけはなんだったのじゃ?
きっかけは、夫人が別の愛人を招き入れてる事を知ってしまったんです。そこで夫人の元を離れる事を決意し暫くは音楽家を目指して職を転々としていました。
転々としていた中でとある論文の募集を見つけてそこで一気に閃いたんです!
ヴァランス夫人はルソーを様々な学校に入れ職を得られる様図りましたがルソーは夫人を溺愛し離れようとしませんでした。やがて、夫人は消息を絶ちます。ヴァランス夫人と別れた後、ルソーは立身出世を志しパリへ出ます。
1742年、「数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法」を考案しパリの科学アカデミーに提案しますが幾らかの賛辞があたえたれたのみで良い職を得ることはかないませんでした。
その後、いくつかの職を転々としますが長くは続かず音楽家を志しますがこちらでも満足な評価はえられませんでした。この頃生涯添い遂げるテレーズと出会い5人の子を設けますが生活苦から孤児院にいれています。
不遇な状態からの脱出
何はともあれお主の論文や著書は大変評価されたらしいのう。どの様な内容だったんじゃ?
基本的には、文明が発達し進歩した事で人間が腐敗させたという事が書いてあります!
文明が発達すると生産力が上がって富を築きますが、その富を巡って不正や争いが起き不平等が増えていきます。制度はは不平等であっても逆らえない様にするためにできたと考えました。
評価された要因としては、丁度文明が発達し豊かになっていくはずなのにも関わらず生活が豊かにならない事で不満になっていた方も多かったのでしょう…
「学問芸術論」が懸賞論文へ当選
1750年、ルソーはディヴィジョン科学アカデミーの「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という懸賞論文を見かけこれに応募します。
この論文でルソーは、「人間は本来善良であるが、堕落することを認める社会制度によって邪悪となる」という直感から、学識をひけらかすことや享楽的な文化によって専制君主が人々に奴隷状態に甘んじるよう強いていると批判し、学問や芸術は人間の良識に基礎付けられるべきであると主張しました。
学問と芸術が人間を腐敗させ、文化は専制君主が人々を支思い通りに支配する策であるという主張は当時の論壇に衝撃を与え、ルソーの「学問芸術論」は見事に入選をはたしました。
世紀の奇書と称された「人間平等起源論」を執筆
ルソーは「学問芸術論」でみせた文明批判の論理をさらに展開させ「人間不平等起源論」という初の大作を書きあげます。
不平等の拡大が社会に悪を蔓延させると行くのだと述べ、当時の社会を批判したルソーは文明を賛美するヴォルテールたち進歩的知識人に大いに反発されこの論文は「世紀の奇書」とも評されました。
モンモラシーでの田舎暮らし
田舎で暮らして更に有名な著書を残していったんじゃな!どんな内容の著書を残したんじゃ!
上記では、社会契約について説明したのでここでは、教育論を論じた「エミール」について紹介していきますね!
「エミール」は、教育には3つの段階があってそれに即して教育を進める事が重要であると論じています。
当時は、子供でも大人と同じ様に扱われて無理な教育をさせていましたからね!
文明批判したルソーは評価もされましたが、反面批判も多数受けました。主要都市では反対派が多く活動が難しかったため1756年からルソーはモンモラシーという田舎で暮らし始めます。
都会から離れた田舎暮らしはルソーにとって非常に良い環境で「社会契約論」「エミール」などの中心部分が仕上げられたといいます。
社会契約論
ホッブズとロックの「社会契約」という概念を受け継ぎながら、個人個人の私利私欲ではない共通の利益を目指す政治の体制を主張し、国民的な集会による直接民主制の可能性を論じました。
直接民主制とは簡単に言うと国会議員ではなく国民が直接政治に参加する考え方です。ちなみに国会議員のような選挙で選ばれた代表者をたてる日本のようなやりかたは間接民主制といいます。
エミール
正式な名称は「エミール、または教育について」です。ルソーが架空の主人公エミール教育する物語を通じて、児童の自然な成長を促すことが教育の根本であると主張している著作です。
ルソーはこの著書の中で教育はあくまで、子供の成長に即し能力に合わせて行う事が重要であると説いています。教育期間の段階も12歳までの第一段階、12歳から15歳までの第二段階、15歳以降の第三段階に分かれると主張しています。
迫害の日々
なるほど、理論は現代となっては理解できるのう。しかし、この「エミール」によってお主は迫害の日々を送ることになったのじゃな?
ええ…
私の理論は、それまでの教育を否定するものであって当時力を持っていたカトリック教会の否定にも繋がってしまいました。
そのため、カトリック教会に迫害され追われる事になってしまいました。
エミールはオランダとパリにて出版されましたがエミールの中にはカトリック教会を否定してしまう内容があり、そういった思想は当時危険思想とされルソーへの迫害が始まりました。
スイスへの亡命後も迫害は続き、哲学者ヒュームの知己をえてイギリスに逃げ延びましたが、ルソーの精神状態は悪化の一途を辿り極度の人間不信と被害妄想に悩まさされるようになります。
貧困に窮する晩年、そして死
フランスに戻った後、ルソーは不安定な精神状態のなか自伝的作品「告白」などの執筆活動を行いましたが年齢とともに体力も衰え貧困に窮していき1778年パリ郊外エルノンヴィルにて66歳で波乱の生涯に幕を閉じました。
ルソー – まとめ
いかがでしたでしょうか。ルソーは文明と社会のあり方について鋭く切り込みました。
人間の理想や幸福を自然から見出し、文明と文化による人間の堕落を回復させて行くため一般意志に政治を託しに自由と平等を保障することを説きました。
この考えは「フランス人権宣言」大きな影響をあたえ、今日の民主主義を語る上では欠かせません。政治に関心が集まる昨今だからこそルソーの思想は知っておいて損はないのではないのでしょうか。。