サルトル、実存主義について研究し主張した哲学者です。

授業で出てくる哲学者と言えば古代から近世まであたりが主流で近代から現代までの哲学は少ないように感じます。そのため、授業でサルトルの存在を知らない方も多いと思います。

サルトルの思想は、社会を重要視する考えから個人を重要視する現代こそ見直していくべきだと思います。聞きなれない単語もあると思いますが詳しく解説していきますので是非ご覧ください。

ジャン=ポール・サルトルとは

1967年・62歳のサルトル – 参照:Wikipedia

進行はわしソクラテスじゃ!そして本日のゲストはサルトル!

随分現代に近い哲学者じゃ!お主は実存主義というものを重要視して研究しておったらしいのう。どんな主義なんじゃ?

初めまして、サルトルです!

私が主張した実存主義とは、まず人間は物とは違って本質より実存が先立っている所から始まります。簡単に説明しますね!

物と区別するため人間の存在の事を実存と呼んでいます。物は鉛筆であれば書くためといった様に本質(意味)を持って生まれます。

しかし、人間はそうではありません。よくドラマでは「お前は〜なるために生まれたんだ」など言いますが、これはたわ言であって誕生する人間は意味など持っていません。

つまり、本質を持つ前に誕生が先行しているという事です。これを”私は本質より実存が先立つ”という言葉で表しました。

ほう、非常に分かりやすい!だが、元々人間に意味など無いとなるとそれは辛いものじゃのう…

人間に意味を見い出すことはできるのか?

そうです、なので私は「人間は自由の刑に処されている」と表現しました。意味を持たない事は自由ですが、自由である事は実は辛い事なんです…

ただ、意味なく終わるだけではありません。人間の意味つまり、本質は主体的に行動し社会へと参加していく事で新たに決めることができると考えました。これが実存主義です!

サルトルは、フランスの代表的な哲学者として、人間個人の主体性を大切に考えた人物です。

人間には選択の自由があり、だからこそ主体的に行動を起こし、積極的に社会参加していく事で、人間の本質が決められていくのであるという「実存主義」を主張しました。

私生活においては、死ぬまで寄り添って生活していた実質的な妻とお互いに自由恋愛を認める変わった契約を結んでいたことが知られています。

サルトルは、世界的な影響力を持ちながら、積極的に世界で起こる社会活動に参加し、また、様々な哲学者とも交流を持つことで、生涯にわたって自身の哲学を見つめ直していました。

フランスが生んだ現代哲学の代表的存在

フランス実存主義の祖と言われているサルトルは、実存主義を主張する哲学者の中でもより人間個人の存在(実存)に注目した哲学者です。

西洋で最も重要な宗教と言えるキリスト教では、イエスという神の存在が先立ち、我々個人は神の産物という意味づけがされてきました。

しかし社会が成熟し、個人の自由が大きくなるほど世の中の人々は自分の人生について考える時間というのが多くなります。

そんな中で、無神論とも言える実存主義を主張したサルトルは社会的にも際立っており、当時の民衆から絶大な支持を受けました。

哲学者であり、小説家であり、劇作家

哲学者として有名なサルトルですが、代表作の「嘔吐」を含め、10冊を超える執筆作品があります。18歳の高校生時代には雑誌に短編小説を発表するなど、哲学者として有名になる前から、執筆活動に力を注いでいたようです。

他には劇作家として10もの戯曲を発表しており、発表した哲学書の数よりも多くの作品を発表しています。

実存は本質に先立つ、実存主義とは

この言葉はサルトルの著書「実存主義とは何か」に記されている言葉で、サルトルの実存主義を最も端的に表している表現です。

実存というのは人間個人の存在を表しており、物の存在と区別するために使われる表現です。

物というものはあらかじめその本質が決められた上で存在します。例えば鉛筆は物を書くという本質を持って生まれます。鉛筆を作ってから、何にかに使用するか考えるわけではありません。

それに対して人間は、まず誕生して(実存)、個々人の生活環境や人生における選択によって個々人の本質が決められていくわけです。

この世の全ては神が生み出したであるとか、プラトンが提唱したイデア概念と違い、物と個人の存在を区別したというのがサルトルの提唱する実存主義の大きなポイントです。

苦難が積み重なったサルトルの幼少期

ラ・ロシェルの街。(サルトルはラ・ロシェルの高等学校へ通った) – 参照:Wikipedia

幼少期、3歳で右目を失明

哲学を学ぶ者達は、幼い頃にこうして逆境がある事が多いのう〜

ええ。幼い頃は挫折も多く大変でした…

ただ、幼い時に自身の存在意義を考えていた事で後に実存主義を構築する事ができました。

1905年にパリで生まれたサルトルは父親を早くに失くし、教授である祖父の家で育てられます。

写真を見てもらうと分かると思うのですが、サルトルは極度の斜視を持っています。これは3歳の頃に失明したのが原因で、この見た目に少年時代のサルトルは悩んだ事もあるようです。

挫折を経験した学生時代

サルトルは12歳の頃に転校を経験するのですが、転校先の学校に上手く溶け込めず、また、恋愛にも失敗し人生における挫折の時であったと自身で述べています。

哲学を学び名を知らしめた青年期

シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトル – 参照:Wikipedia

生涯の伴侶シモーヌ・ド・ボーヴォワールとの出会い

ほう、お主は自由恋愛をしとったのじゃな!人によっては批判的になる可能性もあるのう!

それは承知の上です!人間の本質は自身で決めるものだと思っていましたから!

人が決めた常識に則るだけの人生は充実したものにならないと自由な恋愛をすることに決意しました!

23歳でアグレガシオンという哲学の試験に落ちてしまいますが、翌年にトップの成績で合格します。この試験でサルトルの次の成績で合格したのが、一生の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールです。

二人は結婚関係でありながら自由に恋愛するという契約をお互いに交していたのですが、二人の関係はサルトルが死ぬまで続きました。

世に名を知らしめる事となる30代

30代で思想が広まるとはお主もすごいのう!どんな事が要因だったんじゃ?

実存主義の観点が民衆に評価されたのも一つですが、小説形式で自分の思想を表現したのが良かったみたいですね!

30代のサルトルは次々と後に名著と言われる書籍を執筆します。この時期はサルトルの哲学が最も発展した時期でもあり、世界にサルトルと実存主義という二つの言葉が爆発的に広まった時期です。

実存主義の名著「嘔吐」の出版で、名声を得る

サルトルを最初に有名にしたのが30歳前半に執筆した「嘔吐」という小説です。哲学書ではなく、小説作品が先に世に広まったというのが面白い点ですが、実はこの「嘔吐」という小説は、サルトルの実在主義をわかりやすい形で伝えるための作品なのです。

ノーベル賞を自ら辞退した最初の人物として有名なサルトルですが、この「嘔吐」に対する評価がノーベル賞選出に大きく貢献しています。

代表作「存在と無」の発表

この作品はサルトルの生涯においても哲学的な代表作と言われる作品で、実存主義を決定的にした作品です。

当時は高校教師だったサルトルですが、この本は様々な方面で議論され、哲学書としては当時異例の売り上げ部数を誇りました。

対自存在と即自存在

サルトルは「存在と無」の中で、物と人間の区別を対自存在と即自存在という言葉を使って表現しています。

対自存在とは、人間が他人や過去の自分を意識することで自分自身の本質を作り上げていくという考え方です。

一方、即自存在は物は生まれた時から既にそのものの本質が決められているという考え方です。

自由の刑

対自存在である人間は、自分の本質を自分で決めなければいけません。

これは言い換えると自由であるという事もできますが、自由であるが故に人間は悩み、苦しみます。これをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と表現しているのです。

サルトルはこの自由の刑から抜け出すためにも、「アンガージュマン」となって主体的に行動することが大切であると主張しました。アンガージュマンとは、積極的に社会活動に参加する事を意味します。

受身的に生きていては、物と同じ即自存在になってしまい、自分の本質から逃げている。自分の可能性を広げ、より充実した一生を送るためにもアンガージュマンが重要であると考えたわけです。

ノーベル賞より社会活動家として世界を回った壮年期

キューバを訪問し、ボーヴォワールと共にチェ・ゲバラと会談するサルトル – 参照:Wikipedia

壮年期、社会活動家として世界中を飛び回る日々

実際に、社会活動を実行していたんじゃの!哲学者として実行力は大事であるとはいえ素晴らしい事じゃ!

恐縮です!本質を見い出すための社会活動参加は私自身の人生も充実させましたから!

アンガージュマン、積極的な社会活動への参加を主張したサルトルは自分から進んで世界中で起こっている社会活動に参加していきました。

当時世界的な発言力を持っていたサルトルは、アルジェリア戦争におけるフランスからの民族解放戦線を支持や、キューバ革命政権の支持、ソ連によるハンガリー侵攻やプラハの春に反対するなどサルトル自身の立場を積極的に表明していました。

まさかのノーベル賞辞退宣言

これも偉大な哲学者に多いが、賞など名誉に対して断る事があるのう。どうしてなんじゃ?

作家は賞を受け取ると自身の文章に制限がかかってきてしまう可能性がありますから。

作家として、賞などに惑わされる事なくありのままの文章を伝えたかったんです。

誰もが知っている世界的な名誉、ノーベル賞。サルトルはこれを辞退した最初の人物として有名です。

サルトルはノーベル賞以外にも、全ての賞を辞退しており、賞をとることで作家としての独立性が制限されると述べているようです。

実存主義の勢いが失われるも多くの人々に影響を与え続けた晩年

モンパルナス墓地にあるサルトルとボーヴォワールの墓 – 参照:Wikipedia

晩年、構造主義の台頭により勢いを失う実存主義

どんなに優れた考えも新たな主義の台頭で衰退することはよくあるからのう。

ええ、当時は社会が一致団結し大きく成長を遂げていた頃だったので個人を重視する考えは段々と批判の対象になってしまいましたね…

サルトルは70歳を手前にして両目の視力をほとんど失ってしまいます。

一世を風靡したサルトルの実存主義でしたが、レヴィ=ストロースなどによる構造主義の台頭でその勢いを失っていきます。サルトル自身も晩年におけるレヴィとの対話において、実存主義からの転換とも取れる発言を残しています。

個人を重要視する実存主義から社会を重視する構造主義への転換はある意味自然だったのかもしれませんが、全盛期のサルトルの勢いというものが失われていたのも事実です。

現代哲学の巨匠の最期

実存主義の勢いを失っていながらもお主の最後はすごかったそうじゃのう!

はい!実際に私が死んでしまった後なので見ることはできていませんが大勢の方が弔ってくれました!

こうして私の主義や活動が多くの方に影響を与えたと思うと嬉しいことですね!

サルトルは肺水腫により74歳で亡くなります。実存主義も勢いを失い、サルトル自身にもかつてのような影響力はありませんでしたが、5万人もの人々が彼の死を弔っており、その中には数々の有名な哲学者の姿もあったそうです。

自身の哲学を信じ、自ら活動することでその思想を体現したサルトル。実存主義の祖として今もなお多くの哲学者に影響を与え続けています。

サルトル – まとめ

いかがでしたでしょうか。

サルトルは実存主義を通して人間個人について深く研究し主張しました。人間は実存は本質に先立つ(存在が先で本質は後から決まる)ため、本質を自ら決めるためアンガージュマン(積極的に社会活動に参加)が大事だと説いています。

この考えは、構造主義(社会を重要視する主義)によって衰退していきました。しかし、現代では多様化が進み個人に重視される時代に再度代わりつつあります。

このような時代でこそサルトルの実存主義はまた必要になってくるのではないでしょうか。この機会に是非実存主義と照らし合わせ見直してみてください。