ラッセルといえばヒルティ、アラン、と並んで3大幸福論で有名な哲学者です。自己啓発本などでラッセルの『幸福論』や名言に触れたことのある方も多いのではないでしょうか?

当ページではバートランド・ラッセルについて、そして有名な『幸福論』についても解説します。

バートランド・ラッセルとは

ラッセル – 参照:https://www.theguardian.com/

17世紀イギリスの哲学者

現代分析学の基礎を築く

数学者、哲学者、論理学者、教育者、心理学者であり平和活動家というマルチな才能を持つ知の巨人、バートランド・ラッセルは典型的なイギリス貴族階級に属する人物でした。

ケンブリッジ大学で数学や哲学を学び、現代分析学の基礎を築いたと言われています。

無神論者である

ラッセルは、神の不可知論を提唱していたことで、無神論であるといわれています。「自由人の信仰」や「わたしはなぜキリスト教徒ではないか」等の論文で、宗教の基礎は、死への恐れにあるとしました。

アリストテレス以来最大の論理学者

ラッセルは最大の論理学者の1人と言われています。その業績は従来体系におけるパラドックスの発見が大きく関わっているとされています。

『幸福論』を執筆

『幸福論』は1930年、ラッセルが58歳の時に執筆した代表的な著書です。幸福の根本について「幸福とは待っていれば向こうからやってくるものではなく、自ら獲得すべき能動的な営みである」という思想を持っています。

現実主義的な平和主義者へ

ラッセルは、現実主義的な平和主義者であることが特徴です。時代の情勢に沿って、悪いと思われるものと戦い、良いと思われる手段で平和の実現を目指しました。 

世界政府樹立とそれによる世界の平和維持を目指しました。米国が持つ原子爆弾の抑止力によってソ連を押さえ込むことでそれは実現すると考えていました。

幅広い分野での実績を残した

ラッセルは「教育」の問題にも関心をもっており『教育論』を発表しています。そして翌年には自らその教育論を実践し始めます。また、1952年刊行の著書『社会における科学の影響』において大衆心理の操作は洗脳効果が重要であると述べています。

1950年、「人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して.」ノーベル文学賞を受賞しました。

幼少期~青年期-苦悩しながら独自の哲学へ

19世紀にイギリスで生まれた

ラッセルは、1872年、5月18日イギリス、ウェールズのトレレックで名門貴族の次男として生まれました。

貴族によくみられるような正規の初等・中等教育を受けず、ロンドン郊外の父方の祖父母のもとで18歳まで過ごしました。ラッセル伯爵家の貴族であり、イギリスの首相を2度務めた初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは祖父にあたります。

ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学

ラッセルが数学に興味をもつようになったのは、兄が「ユークリッド幾何学」について教えてくれた時でした。

当初ラッセルは数学における基本原理である「公理」の存在に納得できなかったといいます。その後も「数学」に興味をひかれ、さらに詳しく学ぼうと、18歳ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入学します。

そしてその後しばらくの間はケンブリッジ大学で教鞭をとっていました。

神への疑念を抱き無神論へ

キリスト教信仰の合理性を検討しはじめる

16歳の時より、日記帳に主として宗教問題に関する若き日の思索を綴り始めました。そして翌年、ケンブリッジに行く前に『ミル自伝』を読み「死後の生命はない」と確信し、無神論者となります。

ラッセルは教会の歴史的過誤を痛烈に非難するだけではなく、教会の基本的教義に挑戦しました。またラッセルは宗教の定義を「自分自身を楽しくする目的をもって、ナンセンスの集合を信じようとする欲求」であると放言しています。

ラッセル自身「私が無神論者であるか、不可知論者であるか、私は確かではない。だから時としては前者になり、時としては後者になる」と発言しています。

2種類の一連の著作を執筆していくことを決意

1895年始め、2種類の一連の著作を執筆していくことを決意しました。1つは抽象的な論理学や数学から始め具体的な方向へ向かう研究、もう1つは最も具体的な社会や歴史から始め、一般の抽象的な原理にかえる研究でした。

ヘーゲル主義から独自の哲学へ

ケンブリッジでは19世紀後半、ヘーゲル主義が哲学を支配していました。この哲学学派は、新ヘーゲル派と呼ばれています。20世紀前半には、ラッセルはヘーゲルから離れ独自の哲学を始めます。

ヘーゲルから離れてすぐに執筆された著作である『数学の原理』では、多くの普遍的存在者を認めるという極端な普遍実在論を展開しました。

しかし、記述理論の発見をしたことをきっかけに、その関心は「その個物が何であるか」向けられるようになっていきます。

壮年期-激動の時代を過ごす

アリストテレス以来最大の哲学者といわれる

パラドックスの発見

ラッセルのパラドックスの発見は、ドイツの哲学者・数学者のフレーゲと関係があります。

フレーゲは数学が論理に帰着しうるものと考え、著作『算術の基本法則』を発表していますが、ラッセルは1901年、それが従来の体系でパラドックスを示せることを発見します。

このパラドックスのために、ラッセル自身もまた約2年間の事業停滞を強いられることになるのです。

記述理論を発表

記述理論は1905年に著書『表示について』で初めて発表されました。

ラッセルによると、日常言語の名詞ならびに名詞句はある対象を指示すると限りません。単称名辞と呼ばれる確定記述および固有名詞は、伝統的に文法上の主語として唯一の対象を指し示すとされてきました。

しかし、それらは論理的に何も自律的な実体に対応していないかもしれないという理論です。

記述理論は、以下のような手法になります。

  1. 現代の王ははげである」 という文章を考える場合、この文を、「あるものが存在し、それ一つであり、王であり、かつはげである」 と訳します。
  2. すると、実際には存在しない「現代の王」が示す指示対象として存在者をなんら仮定することなく文を解釈でき、それが真実かどうか確認することができる。

科学的推理に5つの公準を示す

ラッセルは、以下に示す5つの公準が存在し、それらは科学的な推理を可能にするとしました。

  1. 擬似永続性の公準
  2. 分離可能な因果列の公準
  3. 空間時間的連続性の公準
  4. 構造上の公準
  5. 類推の公準

擬似永続性、分離可能な因果列、空間時間的連続性、向上上の公準では、物体が適当な感覚を引き起こしているときには、物体が有している性質がそこにあるだろう、と考えることができます。

対して、類推の公準は、物体に触れていない時にも、視覚的なイメージがおそらくそこに結びついて存在するだろうと考えます。

平和運動へ熱中

1916年には平和運動、婦人解放運動に熱中したため、ケンブリッジ大学を解任されてしまいます。さらに1918年からは6か月の間投獄されますが、自身の身を案じることなく行動を続けました。

代表著書『幸福論』の執筆

ラッセルの幸福論とは

ラッセルの幸福論の考えは、結論からいうと「興味・関心を内から外へ向けて、バランスを持って生きよう」といったものです。ラッセルの例え話を紹介します。

 「豚をおいしいソーセージにするために精巧に作られた2台の機械があった。1台は豚に熱意を持ち続けた結果、たくさんのソーセージを作った。もう1台は、『豚がなんだ。自分はこんなに精巧な素晴らしい機械なのだ』と、ソーセージを作るよりも自分のことを研究しようと考えた。その結果、ソーセージ機に本来の食物が入らなくなると、内部は機能しなくなってしまった」 

つまり、もう1台であった後者は、単なるさびた機械になってしまったということです。精神とは不思議な機械のようなもので、提供された材料を素晴らしい組み合わせにすることもできるが、一方外からの材料がなければ無力にもなり得ます。

だからこそ興味・関心を自分に向かわせるのではなく、外に目を向けよと説いているのです。 

3大幸福論の違い

「3大幸福論」といえば、ヒルティ(1891年)、ラッセル(1930年)、アラン(1925年)による3つの幸福論が挙げられます。ヒルティの幸福論はクリスチャンらしく、信仰を土台に「信念」を持って「困難」と闘い、幸せを勝ち取るというもの。

ラッセルの幸福論は、自分の内なるもののだけに目を向けるのではなく、外の世界に好奇心を持ち、経験から幸せを得るというもの。

アランの幸福論は、誰もが不機嫌をばらまくことができるが、誰もが自分の意思で笑顔になり、幸せになることもできると説きました。

晩年期-最期まで精力的に活動を貫いた

現実主義的な平和主義への傾倒

第1次世界大戦を機に平和主義への傾倒が始まる

第1次世界大戦の後、ラッセルは平和のために、まず民への啓蒙と社会制度の改革が必要であると感じました。戦乱に熱狂した民の姿に驚きさえ覚え、社会主義に共感し労働党に入党します。

第2次世界大戦後ナチズムに対抗しながら平和主義を維持

第2次世界大戦では、以前の反戦の態度とは正反対に、ナチズムに対抗するために抗戦を主張するようになりました。

第1次大戦のときの非戦論との違いから「変節」であると厳しく批判されましたが、ラッセルは「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」と弁明しました。

核兵器廃絶運動に身を投じる

その後、ソ連が核兵器の開発の成功し、米国よる水素爆弾開発、計画等によって世界が脅威にさらされる可能性がでてきました。ラッセルは最悪の事態を避けるためにも、核兵器の廃絶運動に身を投じることとなります。

1950年‐78歳でノーベル文学賞受賞

そういった活動の実績も重なり、1950年には「人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して」ノーベル文学賞を受賞しました。

幅広い分野での実績を残し没する

『教育論』を執筆

ラッセルは「教育」の問題にも関心をもっており、『教育論』を発表しています。そして自ら学校を設立し、その教育論を実践し始めます。その学校の教育理念の基本は、徹底した自由放任主義で、それまでの学校とはまったく異なるものでした。

ラッセルは「教育」において「階級意識」と「競争意識」の問題が子供たちにとって大きな壁となっていることを指摘しています。社会体制と政治活動と強く結びついている「教育」を社会改革と分けて考えることは不可能であると主張しました。

また、1952年刊行の著書『社会における科学の影響』にでは大衆の心理操作は洗脳が重要であると述べています。科学的な政治に支配される現代において、メディアと教育は最も重要な問題であると考えていました。

『西洋哲学史』を執筆

哲学とはその時代時代の哲学者の生きた政治的・社会的制度と切っても切り離せない、ゆえに哲学史は社会史と無関係なものではありえないとラッセルは述べています。

哲学は古代ギリシアで始まって以来、社会の連帯を強くしようとする人、逆に緩くしようとする人に分かれました。哲学を理解するためには、背景にあるその哲学者の生きた政治的・社会的な環境も理解する必要があると説いたのです。

ラッセル=アインシュタイン宣言

1955年に宣言されたラッセルと物理学者アインシュタインによる戦争絶滅の訴えのことです。核兵器の使用による一瞬間の死は少数であっても、大多数はじりじりと肉体崩壊に苦しみながら絶滅するであろうと警告しました。

この訴えは世界的に大きな反響を呼び、1957年からは世界の科学者が核廃絶に向けて話し合う国際会議としてパグウォッシュ会議が開催されるなど、世界的な核兵器廃絶運動の出発点となりました。

1970年 – 97歳で死去

1961年には、「百人委員会」を結成し、委員長に就任しました。母国英国での核に対する抗議運動を行って、生涯2度目の懲役刑を受けることになります。 

ベトナム戦争に対しても厳しい批判行動を行い、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷を開廷します。 そして1970年、97歳でこの世を去る直前まで精力的に活動したのです。